2004 夏の作品展

シニア倶楽部 夏の宿題作品


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あの暑かった夏! 2004年の夏は猛暑続きでしたね。
シニア会員の皆さんの作品です!(掲載は提出順)

まだ未掲載がありますので準備できしだい掲載していきます





提出1番!
高地俊介さんの作品



高地さんのコメント:
この暑い時期、頭が回転する余裕がないので最近教えて頂いた教材を描きました。遅くなると出しそびれそうなので早く提出いたします。今年は、これで帳面消してください。お願いします。H16.7.23

事務局:この作品はすべてワードで制作されています






永川由美子さんの作品



事務局: 博多祇園飾り山笠の1枚






大櫛星太さんの作品





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原野保之さんの作品







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井上信子さんの作品


あの夏の日

 戦争中、私は旧制女学校の生徒であった。二年制まで平常通りの授業があったが、三年生から勤労動員で飛行機の部品作りに狩りだされた。学校の体育館が軍需工場に様変わりし、「学校工場」と呼ばれたその工場に、私は防空頭巾を肩からかけ、戦闘帽にもんぺ姿で毎日阪神電車に乗って通った。そんな訳で三年生からは授業はなかったが、上級学校に進学する人は仕事が始まる前に補習授業が一時間だけあった。私は薬学専門学校に進学するつもりであったため、生物の授業を受けた。英語は敵国語ということでボイコットされていたので、英語のコンサイス辞書はタバコの巻紙に使われていたのである。
 学校工場はプレスする機械の音や油の臭い、ジュラルミンを鑢(やすり)でけずる音で溢れていた。私の隣には辰馬さんという造り酒屋のお嬢さんがいたが、彼女の顔はいつもジュラルミンの粉がついてキラキラ光っていたのを思い出す。私はやすり鑢(やすり)を使いながら「子どもの作るこんな製品が本当に飛行機の部品として役に立つのだろうか」といつも疑問をもっていた。
 お昼近くになると、当番が豆かす入りのおにぎりを一個づつ配った。食糧難の時代だったから仕方が無かったが、ビチャビチャの柔らかいおにぎりで不味かった。私たちはいつもお腹が空いていたので文句などいわず黙って食べた。今ではとても喉を通らないだろう。
 機械の部品が不足すると、当番は倉庫まで荷馬車に乗って取りに行かねばならない。考えられないことだけど、甲子園の野球場が倉庫がわり使われていた。窓ガラスは割れ、シンボルの蔦の葉は手入れが行き届かず枯れて廃墟のような佇まいであった。七月のある暑い日、私は三人のクラスメイトと部品取りに球場にでかけたが、途中で艦載機の機銃掃射にあった。急降下してきた艦載機を見て急いで荷馬車から飛び降り、夢中で物陰に隠れた。パパーン、パラパラ、という弾の音とともに、あのときの恐ろしさは今だに忘れることが出来ない。
 昭和十九年になると毎日のように空襲警報が発令された。十一月にB29による東京初空襲、続いて名古屋、大阪とつづいた。私が住んでいた阪神間にも空襲警報が発令され、防空壕を出たり入ったりの毎日であった。昭和二十年三月の大阪大空襲で阪神間も大被害をうけた。続いて神戸・・・・・・。
 三月十七日の夜中、プーップーッという警戒警報で飛び起きた。ラヂオの報道で、今夜は大編隊の空襲らしいと分かり四日前の大阪空襲を思い緊張した。空襲警報が鳴ると編隊の爆音が聞こえた。爆音が大きくなり頭のうえまで来るとザーッという音とともに焼夷弾が落ちてきた。周りが昼のように明るくなった。すぐ近くに落ちはじめると「逃げろ、逃げろ」という声がする。父が「お前たちも逃げた方がいい。早く行け」と大声で叫んだ。母は三歳になる妹を背負い、私と弟の四人で火の中を走った。焼夷弾がドスン、ドスンと落ちるとすぐに火を噴きモウモウと黒い煙が立ち上がる。私たちは何処へ逃げていいか分からず、とにかく人の流れに添って南へ南へと逃げた。周囲の空が燃える火で夕焼けのように赤い。
 西宮は造り酒屋が多いので海岸近くに酒蔵がならんでいる。その間を親子四人で逃げ回った。途中で母が「もう歩けない」といって座り込んでしまった。妹を背負い濡れた夏蒲団までかけているので無理もない。私たちは仕方なく物陰に座り様子をみる。油脂の燃える臭いが鼻を突き油煙で顔は黒く汚れている。
 やっと警報が解除された。二時の発令から五時すぎまで三時間も逃げ回ったことになる。黒い雨の降り続く中を、もどってみると我が家は焼け残り父も無事であった。家の中は砂埃や足跡でザラザラしていて座る場所もない。
 空襲警報が解除されると、今まで命がけで逃げ回っていた人たちが鍋や薬缶を持って焼けた酒蔵へ走った。樽からこぼれ出るお酒を汲みに駆け出したのだ。
 この日、多くの人が命を失い家を焼かれた。クラスメイトだった柏木さんは家族で防空壕に入っていて両親と姉妹弟三人を一度に亡くし、彼女と生まれたばかりの赤ちゃんが残った。赤ちゃんはお母さんの胸に抱かれていたという。歯医者さんのお嬢さんでいつもニコニコと笑顔のすてきな人だったのに・・・・・・。私は柏木さんの家のあとにいってみた。そこは何も無くただ大きな爆弾の穴が幾つも空いていて泥水が溜まっていた。「なんてひどい!。戦争とはこんなことか。これから柏木さんは赤ちゃんと二人でどうするんだろう」私は青ざめたまま暫らくそこから動けなかった。この風景は私の胸に深い悲しみとともにずっと生きつづけた。
 八月十五日、「信子ちゃん。戦争は終わったよ」と母が私に告げたとき、私は只ぼんやりと窓から外を眺めていた。「ああ、これで毎晩パッと明るく電灯が点けられる」と、ホッとした。もう、あの暗い灯火管制から開放されるのだ。戦争が終わったというのに私にはたったこれだけの感慨しかもてなかった。
 十五歳のあの夏の日も、今日のように暑かった。

   平成十六年八月十五日

                                 井上信子







山口ユリヱさんの作品



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