小さな屑かご − 父のいたころ


 
台所にて

「有美ちゃん、今日は伯父さん出張だからカレーにしようか」
 私が声をかけると
「ハイ」
 と、姪は愛らしい声で返事をした。
「それじゃ、お野菜の皮むいてね」
 私は冷蔵庫から人参を取り出して彼女に渡すと、物置へ馬鈴薯と玉葱をとりに行った。台所に戻ると、危なっかしい手つきで人参の皮をむいている。厚くむいているのでもとの三分の二くらいの大きさになっていた。
「あら、スマートになったね」
 と言うと、彼女は大きなエクボをよせて笑った。
 夕方、こんな風に二人で台所に立つようになったのはこの四月からのこと。彼女は私の妹の娘で、今春、高校を卒業したものの手もちのサクラを全て散らしてしまった。そこで予備校に通うため、佐世保から福岡に出てきて我が家に寄宿することになったのである。
 夕食の手伝いはさせてほしいと母親からの申し出があり、にわかに助手ができた私だが戸惑うばかり。なにしろ、これまでずっと男ばかりの世帯だったので女の子の扱いが分らないのだ。なんでも「ハイ」「ハイ」と素直な返事をされるとドギマギしてしまう。「今日は有美ちゃん流のカレーを作ってみましょう」
 と言うと、彼女はすぐ野菜を炒めはじめた。菜箸を使う手つきが母親そっくり。妙なところが似るものだと感心してみていると、料理の手順がわたしと少し違う。
 私はまずにんにくを炒め、次に野菜つづいて肉と、こんな順序にするのだが、彼女は野菜を炒め、次に 肉を少しずつ何回にも分けて炒める。長い菜箸の先で挟みにくそうにしては肉を入れている。そして最後がにんにく。私は野菜が煮くずれそうに軟らかくなってからルーを入れるが、彼女は野菜の形が人参、馬鈴薯とはっきり分るくらいの軟らかさでルーを入れるのが好きなんだそうだ。
 プーンといい匂いがあたりに流れて、白いごはんいかけたカレーから、人参や馬鈴薯がポコポコ頭をのぞかせ「有美ちゃん流カレー」はでき上がった。
「のんびりした娘だから、夕食の用意は朝からさせて丁度いいくらいよ」
 と妹は冗談を言っていたが、まあ本当にその通りのようだ。洗うのも切るのも丁寧でゆっくりいている。私とは正反対だ。
 私は、人参の皮はところどころしかむかないし、野菜も大き目に切る。炒めるときも菜箸など使わず、木のしゃもじでサッサッとダイナミックに仕上げてしまう。
 結婚して間もないころ台所で姑に、「私も雑やが、貴女も雑ね」
 とズバリ言われたことがあった。そのときのショックは今でも鮮明に思い出せるが、どうも性分は直らないものらしい
 さぞかし姪も、伯母さんは大ざっぱな人だと内心あきれているんじゃあないだろうか。
 先日、デパートの福博のれん市で刺身こんにゃくを買って帰った。若い人にはどうかと思って尋ねると、「高校のブラスバンドの演奏旅行で鹿子島旅行へ行く途中、山の中の茶屋ではじめて食べたけど、とても美味しかった。大好き」「じゃあ、切ってね。指を切らないでね」
 私は、彼女にまかせた。
 そうして、出来上がった刺身こんにゃくを見てアッと息をのんだ。
 まるでふぐ刺しと見間違えるくらいに、薄く薄く切られたこんにゃくが、お皿の上にきれいに並んでいた。「まあ!きれいに切れたねー」
 私の目は、透き通ったこんにゃくの上に釘づけになった。
 結婚前のこと、私は母に奈良漬を切るように言いつけられ、切って食卓に出したら、「こんな厚切りにするものじゃなかよ。食べにくうてしょうがなか」
 と叱られたことを思いだした
 カレーの作り方が違っても、栄養価に変わりはないし、こんにゃくの切り方がどうであっても、成分のマンナンが化学変化をおこすわけでもないだろう。
 我が家にもそのうちお嫁さんが来ることになるだろうが、「私も雑やが、貴女も雑ね」と、私が呆れるような人か、刺身こんにゃくをふぐ刺しに変身させるような人か、今からその日を楽しみにしている。
(昭和六十二年六月)




 私の青春時代

 昨年の春から姪が同居するようになった。佐世保の実家を離れ福岡の我が家に寄宿して予備校に通っている。
 私には息子しかいないので、初めて接する女の子の優しさ、可愛らしさに心を和ませることが多い。
 姪の十九歳という若さ、白い肌の輝き、すんなり伸びた四肢、私がとっくに失ってしまったものを彼女はことごとく持っている。入試にチャレンジしている心の張りも感じられ、ああ美しいなと見とれることがたびたびだ。
「私は美人じゃないから、人前で鏡をのぞいたり、髪をとかしたりはとても出来ない」
 と、姪は言う。
 私から見ると、十人並みだし色白でふっくらしていて清純な美しい娘だと見えるのだが。
 どうも、自分の美しさというのは、本人には分からぬものらしい。だからこそ美しいのかも知れないが−。
 ふと、私は自分がこの年ごろどんな娘だったろうかと考えた。もう、四十年も昔のことである。
 そのころの私は、毎日重いカバンを提げて阪急電車に乗り、岡本の神戸女子薬学専門学校に通っていた。紺のスーツに房のついた角帽をかぶって、駅から山の中腹にある学校まで二十分ほどの道のりを、呼吸を弾ませて登って行った。そして朝八時ごろから五時近くまで勉強や実習で鍛われていた。
 それまで無試験でとれていた薬剤師免許が、終戦後、教育制度が変わり昭和二十四年から国家試験に合格しないと取得できなくなった。その第二回目の国家試験を私たちが受験するので、学校側も合格率100パーセントにするためのカリキュラムを組んでいた。
 薬学教育もドイツ方式からアメリカ方式に切り替わる時期で、両方とも勉強しなければならず、いくら時間があっても足りなかった。
 卒業後のクラス会で、ドイツ語の池内教授がしみじみ、
「君たちは本当によく勉強したね」
 と言われたから、いまの後輩たちよりは頑張っていたのだろうと改めて思った。そのせいで子供を産んでからまでも、試験の夢をみては怯えた。
 いま姪が希望の大学をめざして努力しているように、私もあのころ国家試験という目標をもって励んでいた。
 ファッションにもお化粧にも縁がない生活であったが、そのころが私の一番美しかったときかも知れない。

(昭和六十三年三月)




 父の買い物

 我が家には今年九十四歳になる父がいる。
 二年前まで、つまり九十二歳までは兵庫県の西宮市で暮らしていた。母は父が七十四歳のとき亡くなったので、以来約二十年もの間、ひとりで暮らしてきたわけだ。
 父方は長寿の家系で、叔父や叔母も八十代で共に健在である。
 父も耳と目が不自由なほか、どこといって悪いところはなく、一日三回の入浴と二時間ほどの散歩、あとは新聞をルーペで丹念に読み、ときたまテレビを見るという生活ぶりである。
 散歩といっても父の場合、単なる散歩ではない。とにかくやたらと買物をする。体調のいいときは電車に乗って岩田屋や大丸あたりまで足を伸し、私たちをハラハラさせる。
 四月のある日曜日、暖かくよいお天気で、珍しく佐世保の妹が遊びにきた。父は、たとえお気に入りの娘が来ようが、自分のスケジュールを変えたりしない人なので、例のごとく散歩にでかけてしまった。
 ところが、ほどなく浮かぬ顔をして帰ってきた。父に呼ばれ部屋に行ってみると、一枚の色紙を広げている。それは美しい兜の絵で、五月のお節句に飾るつもりで買ってきたとすぐに分かった。
「この色紙は一万円出して、二百円しか釣りがこなかった。」と言う。よく見ると肉筆である。袋には値札がついていた。
「九千八百円と値段がついているよ。高いの買ったのね」
「そうか、そんなに高いものとは思わなかったんだ。小さい字が見えないからな」
 と残念そうである。
 父は見栄っ張りなので、昔から値段を聞いて買物をするということができない。「これくれないか」と商品をレジの所に持って行き、言われた通りのお金を払う人なので、いつも思いがけなく高い買物をしてしまう。高いと思っても決して返品出来ない人なのだ。
 年金暮らしの父の買物にしては、ちょっと値が張りすぎる。昔から贅沢をしてきた人なので物を見る目は確かなのだが、今は財布の方が承知しない。仕方がないので私は父に店を聞くと翌日出かけて行き、低姿勢で事情を話し、手ごろな色紙に取りかえてもらった。
 冷や汗の出る思いであったが、差引き六千円のお金を受取ると急いで店を出た。
 帰宅していきさつを告げると、父はにっこりと笑い、
「六千円儲かった」そう言って喜んだ。
 それから、三ヶ月ほどたった7月のこと。父に呼ばれて部屋にいくと、ピカピカ光るシルバーのライターを出して、
「これ、美治君にやるよ」
 と言う。突然のことなので私は合点がいかない。よく聞いてみると、大丸で六万円出して買ったが自分のような老人には上等すぎるので、私の夫にプレゼントするという。ああ、またやってしまったのかー。
「交換してこようか」
「そんな必要はない」
 と今回は強硬に拒む。だが夫は愛用のライターを二個ももっているので、このライターをもらっても使うことはないだろう。
 なにしろ一桁違う買物である。父に聞こえないように、私はすぐ大丸に電話を入れてみた。定員さんの話では、はじめに欲しいと言った品物はブランド物の高い商品だったので、さすがの父も、もう少し安いのにすると言ってこのライターを買ったらしい。見栄っ張りの父にしては勇気のいることだったに違いない。だからもう取り替えるわけにはいかなのだ。事情を聞いて初めて父が強硬に拒んだ理由がはっきりした。だが私から見るとやっぱりこれでも高価すぎる。
 そこで、また私は恥をしのんで大丸にでかけ、定員さんと二人で父の気に入りそうなシルバーのライターを選び、差額を受け取った。
 帰宅してライターと差額を黙って父の机の上に置くと、すべて了解した父は、
「交換しなくていいと言ったじゃあないか」
 と厳しい顔をして睨んだ。まっ白な父の眉毛がぴくりと動いた。私は聞こえないふりをしてさっと部屋を出た。
(昭和六十二年七月)




 骨のあるごはん

 我が家の夕食は、六時と六時半の二段階にわかれている。
 六時は今年九十六歳になる父の夕食で、次は私達夫婦と姪の有美。私の妹の娘である彼女は、我が家に寄宿して大学に通っている。
 この家族構成にあった献立はなかなか難しくて、目下、私の悩みの種である。老人食に傾くと姪が物足りなさそうな顔をしているし、若者好みにすると父が食べない。
 しかも父は、リビングの椅子よりも自分の部屋で座ってゆっくり食事をしたいと言うので別々になった。だから、どんな反応をしているのかよく分からないが、どうやら厭なおかずはビニール袋に入れて捨てているようだ。
 そんなこんなで、どうしてもさっぱりして歯ごたえのないものが多くなる。
「有美ちゃん、おじいちゃんに合わせていたらアゴが退化してしまいそうだから、学生食堂ではしっかり噛むようなメニューを選んで食べてね」
 と言うと姪は
「アハハハハ」
 と大きな声で笑った。
 この春、父は左眼の黄斑部の異常で一瞬のうちに視力を失った。残る右眼も白内障が進んでいる。昼間はなんとか不自由なりにも過ごせるが、夜はテレビを見たり、本を読んだりする楽しみが味えなくなった。仕方なく七時にはと床に就く暮らしに変わっている。
 父の部屋に夕食を運ぶ時は献立の説明をする。でないと食膳に並んだ料理が何なのか分からなくて困るらしい。ところが聴力の方もますます衰えているので会話がスムーズにいかない。食膳係である姪の苦労するところだ。
 というのも若い娘のソプラノは聴きとりにくいらしく、何度言っても分からないときがある。今日も
「胡瓜、おじいちゃん、胡瓜よ」
 と言う姪の大声が聞こえてくる。どうやらアルトの出番らしい。私が父の側に寄り、ゆっくりと
「胡瓜」
 と言うとやっと分った。姪もホッとしている。
 ごはんの炊き具合も難しく、夫は硬め、父は軟らかめのごはんが好きだ。お茶碗一杯のごはんを別に炊くのも大変なので一緒に炊いているが、両方から苦情がでないように炊き上げるのは大変だ。少し硬いときには、父の分を二度炊きしている。
 ある日のこと、私は外出して帰宅が遅くなった。大急ぎで米をとぎ、炊飯器のスイッチを入れたが出来上がるのが六時を過ぎてしまった。父が待っているだろうと急いでごはんをよそって姪に運んでもらった。
 ほどなくして私たちの食事が始まると、
「今日のごはんは硬めでうまい」
 と夫が言ったのでハッとした。父のごはんを二度炊きしなかった!急いで様子を見にいくと、
「今日のごはんは硬かった。骨のあるごはんで閉口した」
 とやっぱり機嫌がわるい。
「おじいちゃん、言ってくれれば二度炊きしたのに」
 父は聞こえないのか、聞こえないふりをしているのか
「今日のごはんには骨があった」
 そう繰り返した。
 私は悪かったなと反省しながらも、思わず笑い出してしまった。こんな風に最後は父のユーモアに助けられることが多い
 朝はパン食、昼はソバ、夕食だけがごはんという父の食事なのに、なかなか上手くいかないのだ。
 高齢者の食事を宅配する会社があると聞いてはいるが、どうしたものだろうか。父にはその方がいいかも知れないと思いながらも決めかねて、私はあいかわらず夕食に頭を悩ませている

(昭和六十三年九月)




 小さな屑かご

 庭の草むしりをしている私に、隠居部屋のガラス戸を開けて、父が大きな声で言った。
 「袋がなくなったからくれないか」
 買い物をしたとき、物を入れてくれるあのポリ袋のことである。父はこれを屑カゴにかぶせて使い、いつも一杯になると袋の口を閉じてポーンと濡れ縁に放り投げるのだ。
 嫁にいった娘の世話になるわけにはいかないと、西宮でひとり暮らしをしていた父は最初強く拒んでいたが、年には勝てず、私たちとの同居をはじめ、早いもので福岡での暮らしも五年目の初夏を迎え、九十七歳になった。
 目が不自由になってからは外出することも少なくなり、僅か七坪の隠居部屋が父の全世界になってしまった。ルーペを使って丹念に新聞を読み、ときどきボリュウムを最大に上げてテレビをつける。あとはコタツの中でうとうとしている毎日だが、頭はハッキリして間違わない。年をとるということは年々障害を重ねていくことでもある。頭がハッキリしているだけに、体の自由がきかないことは、なんとももどかしい日常生活であろう。だが、決してぐちをこぼさない。
 こんな老人の暮らしでも、毎日小さな屑かご一杯のゴミが出る。汚れたティッシュやパンの耳、果物の皮、外れた宝くじ。ときにはため息や、ひとり言、大きなアクビも入っていよう。ひょっとすると、父はその日の繰り言も押し込んで、しっかり袋の口を閉じ、ポーンと濡れ縁に放り出しているのかも知れない。

(平成二年六月)




 きれいなおじいさん

 九十八歳になる父は、大の風呂好きである。
 若いころは夕食前と就寝前の二回入っていたが、年をとってからは起きぬけの朝湯も加わり、一日三回が日課となっている。
 六年前、ひとり暮らしの父を福岡に呼んで一緒に暮らす話がでたとき、父は一番お風呂にこだわった。
 今まで自由に入っていたお風呂の楽しみがなくなるのではないか…これが切実な問題であったらしい。結局、バス、トイレつきの別棟を建てることで話が決まり、父はすんなりと福岡の人となった。
 今までのリズムをそのままに、いつも湯上がりのツヤツヤした顔をしているので、「きれいなおじいさん」と近所で評判になった。
 年をとると一年毎に体が不自由になり、昨日までできたことが今日はできない。耳や目はもちろんのこと、手の握力も弱くなった。ガス風呂の操作も不自由になり、家の者がひとつひとつ手をかさないと入浴できなくなった。
 気がむけば、夜中であろうと早朝であろうと不自由な体でお湯をつかうので、一人で上手く操作できず、ぬるいお湯の中で立往生していることもある。一日三回から四回の入浴では家の者も大変なので、ボタン式の風呂釜にとり替える話をしたところ、
 「もうすぐ死ぬんだから勿体ない!」
 と一喝されてしまった。明治生まれの一徹さ、「もうすぐ」だったらなおさらのこと、それまで快適に暮らしたほうがよさそうなものを・・・。
 昨年の暮れのことであるが、あと二日で九十八歳の誕生日を迎えるという日の朝早く、廊下にバタバタと足音がして障子越しに姪の声がした。
 「伯母さん!おじいちゃんがお風呂でどうかしたみたい」
 私は飛び起きて離れに走った。
 父は裸のまま、すっぽりと掛布団をかぶり蹲っていた。いったい何があったのか。風呂場のドアは開けっ放しで、濡れたタオルが畳の上に放りだされている。
  「おじいちゃん、どうしたの」
 と尋ねても、ただ、
 「熱かったんだよう。熱かったんだよう」
 と言うばかり。
 父は右腕の肘から指先まで、ひどい火傷をしていた。朝早くお風呂に入ろうとして、突然お湯の沸き出し口から出た蒸気で火傷をしたとしか考えられない。
 往診した皮膚科の先生の話では、火傷の程度は二度、全治二週間。お風呂の沸出口での火傷は割合多いという話であった。
 しかし、こんなに朝早く入られては家の者も付きあいきれないではないか。
 次の朝、父の様子を見に行くと、風呂場のドアが開いていてバスタブに水が張ってあった。
 「おじいちゃん、火傷しているのだからお風呂はだめよ」
 と言うと、父はそしらぬ顔をしていた。私は黙って栓を抜き、水を落とした。
 二日目。
 念のため風呂場を覗くと、ちゃんとお湯が沸いていた。
 「おじいちゃん、まだお風呂はだめ、火傷が化膿するよ。おじいちゃがお風呂を沸かしたのね」
 と言うと、
 「知らないよ」
 とすましている。
 「でも、ちゃんと沸いてるよ」
 「変だねえ。なんでだろう」
 と恍けた。
 私はそこに姪を呼んで尋ねた。姪は驚いて「おじいちゃんでしょう」と言った.。 父はあいかわらず「知らない」と首をふり、目は遠くあらぬ方を見ている。
 「でも、沸いてるよ」」
 「変だねえ。なんでだろう」
 私は姪と顔を見合わせて、父の名演技に感心するばかりだった。
 火傷の方は、人工皮膚が開発されたお陰で順調によくなり、あと一息というところまできていた。この様子だと二週間もかからず全治しそうに思えた。高齢なのにすごい生命力だ。
 五日目、父は私の顔を見ると
 「お湯を沸かしてくれないか」
 と言った。あと一日、二日の辛抱なのに。
 「風呂に入らないと仕事にならないんだよ」
 と情けない声をだした。
 「なにも仕事はないでしょう」
 つい、きついことをいってしまい心が痛んだ。
 あとで父は姪を呼び、
 「有美ちゃん、お湯を沸かしてくれないか。朝風呂に入らないと夜が明けないんだ」 と頼んだらしい。風呂好きの父が五日も入浴していないんだから、さぞかし辛いだろう。可哀相だが傷の方はやっと薄皮が張ってきた状態なので、いまお風呂い入れるわけにはいかない。
 次の朝、父はのんびりと湯舟につかっていた。もやもやした暖かい湯気の中、幸せそうな笑顔をみて、私はもう何も言えず黙って風呂場のドアを閉めた。
 私が子供のころは、いつも背筋をピンと伸ばし厳しい顔をして、側に寄るのも恐かった父親であったが、いまはもう聞きわけのない幼児のようになってしまった。
 火傷をきっかけに父の体力は急速に衰え、庭に降りることもなく、うつら、うつらと眠っていることが多くなった。あんなに好きだった入浴も一日一回がやっとである。よろよろと湯殿に降り、疲れて這うようにして上がってくる。
 「伯母さん、おじいちゃんこのごろお風呂、減ったね」
 姪の言葉に私は黙って頷いた。
 あとどれくらい一緒に暮らせるのだろうか。

(平成三年二月)




 寒い冬の日

 平成四年二月二十五日の寒い日だった。
 火葬場の控室で待つこと一時間。係の人に案内されて私たちはお骨上げの場所へ移った。
 喪主である私と夫が前列に、つづいて息子や親族たちが並んで、火屋から引き出される亡父を待った。
 足の方から見事に白骨化されて出てきた骨は、まだ少し熱気をもっていた。
 九十九歳二ケ月で天寿を全うした父は、病院を嫌い、注射を嫌い、我が家で私や孫に看取られながら半年ほど寝ついて亡くなった。
 私は骨格の標本のようになってしまった父の姿に、一瞬軽い目まいを感じた。
 明治、大正、昭和、平成と一世紀を生き抜いた父。嫁にいった娘の世話になるわけにはいかないと、母が亡くなって二十年間ひとり暮らしをした父。我が家に迎えた時は九十二歳だったが、まだまだ元気だった父。
 一緒に暮らした七年の間に耳が遠くなり、目が不自由になり、だんだん歩けなくなった。自分で手洗いに行けなくなったとき、目にいっぱい涙をためて言った。
「もう、ボロポロになってしまった。人間でなくなった」
 私は咄嗟に返す言葉が見つからなかった。おしゃれでシャイで、我が儘で頑固で、いつもユーモアを忘れない人だったのに・・・。私の胸はこみ上げるものでいっぱいになった。
「この仏さんは、丈夫な人だったんでしょうね」
と、係の人に言われてハッと我に返った。
「はい。九十九歳で老衰でした」
「そうでしょう。病気で亡くなった人は骨が脆くなっています。こんな立派な骨の人は珍しいのですよ」
 私は嬉しかった。父の満足気な笑顔が目に浮かぶようだった。私たちは、係の人の指示に従って竹の箸で足から順々に上の方へ拾いあげて、骨壷に移していった。息子や姪や甥たちも、黙って拾い上げている。
 それぞれの胸に、可愛がってもらったおじいちゃんへの想いがあったろう。
「おとうさん、よかったね。お骨になってからまで褒められて…。威張って天国に行ってね」
 私は白く綺麗な磁器のような骨に語りかけながら、一つ一つそっと拾い上げた。

(平成十年八月/市民文芸)




 おやすみ、古時計

 父が亡くなって、八畳の離れを私の部屋にすることになった。
 鏡台と本箱と机を持ち込んでみたものの、私はこの部屋で落着いて読書をしたり仕事をする気になれない。
 父が好きだった柱時計だけはそのまま残していたが、古いものだから正しい時刻を告げない。唐草模様アールヌーボー調のいい時計で、父が元気だったころから度々修理に出していたが、やはり遅れがちであった。それでも年を重ね障害をいくつも持って生きた父のような古時計を、私は父が亡くなっても捨てることが出来ない。
 十分遅れ、三十分遅れ、二、三日も放っておくと何時間も遅れてしまう古時計。思いがけないときに、とんでもない時間を告げられては驚かされる。テレビのニュースステーションが終り、そろそろ寝ようかと思ったとき離れの時計が一時を打った。進んで一時を打ったのではない。遅れて一時を打ったのだ。
 なんだか古時計がだんだん可哀想になってきた。父の一周忌も過ぎたことだし、ここらで休ませることにしよう。
 私はリビングから真っ暗な離れにそっと入ると、柱時計の振り子を静かに止めた。
(平成五年五月)




 くせ


 私は狭いところや閉めきった場所が苦手である。
 広々としていないと気持が落着かない。なんだか息苦しくなってしまう。夏はできるだけクーラーは使わずに、窓やガラス戸を開け放し風通しをよくする。冬でも大概ふすまは開けている。
 この性分は母に似たらしく、今、思いだしても自然に顔が綻んでくる。
 母は非常に綺麗ずきな人で、古い家であったが台所の板の間も廊下も黒光りするほど磨きこんでいた。そしていつも障子やふすまを開け放しているので、裏口から入るとずっと奥まで見通せた。
 勝手口から入ってきた御用聞きが、「この家はいつ釆てもピカピカですなぁ」と感心して眺めていた。
 父も綺麗ずきな方であったが、母と反対に開け放すのが嫌いな人であった。夕方、帰宅すると着物に着替えて、夏以外は必ず障子やふすまをキッチリと閉める。それから長火鉢の前に座り、母の淹れたお茶を飲む。
 ところが母は、父が入浴している隙に素知らぬ顔をしてもと通りに開け放してしまう。
 それでいて、そのことでお互い文句を言ったり、喧嘩したりしない実に不思議な夫婦であった。
 父は閉めるのが、母は開けるのがくせであったのかも知れない。そんな中で育ったが、私は別に気にもならなかった。
 母がガンで亡くなり、父は長い間西宮でひとり暮らしをしていた。夫の停年を機に私たちは父を福岡に呼び、亡くなるまで一緒に暮らした。
 カギ型に建て増した父の部屋は通りからよく見える。そこはいつもガラス戸が閉め切られ、あまり開け放されることはなかった。
 近所のお年寄に、「おじいさんは元気にしちゃるね。いつもガラス戸が閉まっとるけど、たまには開けて空気を入れ替えてあげんね」と言われたことがある。
 言われるまでもなく、私は父の部屋を見ると息苦しくなるので、離れに入ってはそっとガラス戸を開けていた。それが又、いつの間にかキッチリと閉められてしまう。
 父が亡くなって二回目のお盆を迎えた。
 母のくせをそっくり受けついだ娘との暮らしは、晩年の淋しい生活の中で案外父を楽しませていたかも知れない。
 私は盆提灯を片附けながら父の笑顔を思いだしていた。

(平成四年七月/市民文芸)


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