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| FOASNET 連載エッセイ わたしの句点 |
私の六十代は新しい家族との出会いで始まった。昭和六十二年、二人の息子は社会人となり、私は母親役から完全に解放され夫と二人で暮らしていた。そんなところへ高齢の父が加わり、女子大生の姪が加わって、思ってもみなかった新しいメンバーの四人家族が誕生した。 この新しい家族構成で始まった暮らしは、私に多くの戸惑いや悩みと同時に、喜びや安らぎをもたらした。そのころから、茶の間のテーブルの上で少しずつ文章を書きはじめた。 十年の歳月は瞬く間にすぎ去り、気がつくと古稀。私はいつの間にか七十代の入り口に立っていた。七十歳という節目を機に、書きためたものをまとめ「わたしの句点」として本にすることにした。 |
| 第5回連載 ニワナナカマドの花 − 我楽多雑記 |
がめ煮 広島にいる息子から電話があった。 「お母さん、明後日の夕食に間にあうように帰るから、がめ煮炊いといて」 がめ煮とは筑前煮のことである。鶏肉と人参、牛蒡などの根菜顆を砂糖と醤油で煮ふくめたお煮しめのことだ。福岡では、普段はもちろん、お正月、お祝いごと、来客のときには必ずがめ煮をつくる。炊きあげた日より、一日置いて味が沁みたころが美味しい。 息子たちも、その辺のことは心得て電話をかけてくる。子どものときから馴染んだ懐しい味なので、楽しみに帰ってくるようだ。 私は電話が切れるとすぐ買物にでた。 まずかしわ屋に寄り、骨つきぶつ切りを買ってからスーパーに廻る。午蒡、蓮根、こんにゃく、絹莢を買う。人参、しいたけ、里芋は買いおきがあった。 神戸から福岡に嫁いできたとき、私は炊飯器でごはんを炊くことしかできないお嫁さんだった。夫の両親との同居だったので、亡くなった姑から料理の手ほどきを受けた。 がめ煮も野菜の切り方から習った。小学校の先生だった姑は教えるのがうまい。野菜をそれぞれ、ひとくち大の乱切りにして、なべに硬い野菜から入れて水煮する。炊き上ってきたら鶏のぶつ切りを入れる。野菜があらかた煮えたところへ砂糖、塩、醤油で味をつけ、中火で煮こむ。里芋は煮えすぎると崩れるので最後に入れ、これに味が馴染んだところで火からおろす。 私の手つきをじっと見ていた姑は、 「あたしも雑やが、あんたも雑かね」 と言って笑った。いまでは懐しい思い出だ。雑な私も四十年のキャリアを積んで、いまではバッチリがめ煮も炊ける。なべいっぱいに炊きあげても、 「あれ。もうお終い」 という具合だ。 がめ煮のルーツについては、いろいろと説がある。もとは禅宗の料理だったとか、いや黒田藩の料理だった、ガメ(スッポン)の肉を使ったからとか。だが、ありあわせの材料を「がめ繰り込んで」煮込むところからきたという説が私は面白くて気に入っている。いかにも福岡らしく、ダイナミックなネーミングだから。 我が家で出番の多い料理がもう一品ある。 博多といえば水炊き、水炊きといえば博多。鶏ガラを水から二時間ぐらい炊くと白いスープがとれる。別のなべで鶏の骨つきぶつ切りを炊いておく。これを白いスープの中で暖めながらボン酢で食べる。薬味に生姜の搾り汁と高等葱という福岡特産の小葱のみじん切りを入れる。まず鶏肉から食べ、スープは湯のみにとり、薬味と塩で好みの味にして飲む。鶏肉を食べ終ってから葱、しいたけ、豆腐、白菜、春菊などの野菜を入れる。我が家ではブロッコリーやオクラも入れるが評判がいい。 初めての客は白いスープを眺めて「ほう、珍しいですね」と感心し、また鶏肉の骨ばなれのよさに驚く。博多いろはカルタにも、「骨ばなれのよさがコツ水炊き」というのがあるくらいだ。 材料をそろえ、食卓のコンロになべをかけ、 「ただいまから、わたくしが、なべ奉行をつとめさせていただきます」 とふぎけて挨拶すると、息子が 「わたくしが灰汁(悪)代官をつとめます」 と乗ってくる。 夫や息子たちの食欲に、なべ奉行は忙しい。いつの間にやら灰汁代官は役目を忘れて食べるのに夢中だ。湯気の向こうに上気した顔が並び、なべを囲んで会話がはずむ。 (平成年九年三月/オール読物) 危険な我が家 床に就いて間もなく、玄関の鈴が「チリン、チリン、チリン」とけたたましく鳴った。 玄関のガラス戸に取り付けた鈴なので、戸を開け閉めしないかぎり鳴るはずがない。不思議に思ったとたん、グラ、グラと家が揺れはじめた。あっ、地震だ。飛び起きたものの、私は布団の上にじっと座ったまま動けなかった。 昨年「地震防災を身近なものに阪神大震災から学ぶもの」という九州芸術工科大学の公開講座を受講して、一通り地震の勉強をした。その時に各自で自宅の平面図を書き、壁面の割合を計算して耐震診断を受けたのだが、我が家の総合評点の結果が「やや危険」とでた。今後の対策として「専門家の精密診断を受けて下さい」ということであった。 ところが今回の講師、九州芸術工科大学の大久保全隆教授宅も「やや危険」との判定がでて、教室内に爆笑が起きた。 耐震の判断基準は地盤や建物の形、壁面の位置や割合、筋交の有無、そして老朽度で決まる。とりあえず壁の割合が多いところが安全ということになると、我が家では風呂場やトイレということになるが、窓には鉄格子がはまっている。これでは我が家には地震のとき安全といえる場所がない。 築後十年、明るくて風通しの良い住宅をと考えて建てたものの、壁面が少ない分、地震に弱いという欠点があったのだ。 帰宅して「やや危険」の判定を話すと、「いつくるか分らん地震のために壁をふやして、いまさら薄暗い家で暮らせるか。そのときはそのときたい」と言った夫は、「震度三」など気にもかけず、軽い渡息をたて始めた。 (平成年八年十月) リヤカー部隊 昭和五十七年の夏、夫の定年で私たちは盛岡から福岡に引き上げてきた。 大橋にある自宅を建て替えるため、約一年ほど中央区鳥飼でマンション暮らしをした。そこは住宅地で近所には一軒も商店がなかったので、夕方になると毎日バスに乗って三つ先にある西新商店街まで買物にでかけた。 西新商店街は品物の安さと豊富さで定評があった。通りの両側には小さな店がぎっしりと軒を並べ、さらに午後一時になると、「リヤカー部隊」と呼ばれる人たちがリヤカーの上に荷物を山積みにして現れる。そして通りの真中に露店を出す。 新鮮な能古島の魚、近郊の野菜や切り花、自家製の漬物や果物、貝類などが現れて、たちまち元気のよい博多弁が飛び交う。 「アジが安かよぉ−」 「トマトはどげんね。おいしかよぉ−」 リヤカー部隊と商店街が一体となって、一つのショッピングセンターのように共有しているのだ。 春には、つややかな苺、みどりの濃い野菜、黄色やピンクの切り花、銀色にかがやくアジやコノシロ、秋には、その場で皮を剥いて売る栗や里芋。まるで、どこかアジアの市場に迷いこんだような活気のある雰囲気だ。狭い道路はいつも買物客でごった返して歩きにくい。 私は、すぐに何人かの顔なじみができた。 能古島から魚を持ってくるおばさんからはカレイやコノシロ、野菜を持ってくるメガネのおばさんから苺やホーレン草、貝専門のおじいさんから砂抜きしたアサリ貝。そこには気さくで優しくて庶民的な暖かさが溢れていた。 先日十二、三年ぶりに西新商店街を訪れておどろいた。リヤカー部隊が半数ぐらいに減っていた。夕方四時すぎというのに買物客も少なく以前のような活気がない。 能古島のおばさんは引退し、目もとがそっくりの息子さんが魚を捌いていた。野菜のおばさんの姿もなく、貝屋のおじいさんが手持ちぶさたに立っていた。 活気あるリヤカー部隊の様子は、たびたびテレビでも放映された。全盛時には露店の人たちも百人以上はいたというのに…。晩年能古島に住んだ作家の檀一雄も、よくここを訪れたと聞いている。 「だいぶ、リヤカー部隊の人たち減ったわね」 私は剥きたての栗を買って聞いてみた。 「そげんこつ。後継者がおらんとたい。みんな死んでしもうてね。残っとるもんは、肩が痛か腰が痛か言うて出てこんと」 リヤカー部隊の人たちも年をとったのだ。すぐ側にあるデパートも地下食品売場をスーパー形式に模様がえしている。西新の風物詩であったリヤカー部隊も、時代の波にさらわれていくようでとても淋しい。 (平成八年八月) いまどきの泥棒 我が家に泥棒が入ったらしい。 「らしい」というのは、いまだに盗まれたという実感がないからだ。 先日、 「井上さん、お宅に泥棒が入ったでしょう」 と二人の刑事が玄関に立った。 思いがけない話にきょとんとしていると、 「犯人は玄関脇の高窓から入って、四万円盗んだと白状していますが…」 と言って、いきなり玄関脇に廻り、 「ここだな」 とリビングルームの高窓をけわしい目つきで見上げた。 泥棒が入ったという高窓は、玄関の壁で死角になっている。リビングのガラス戸はベランダの床から二メートル三〇センチの高さで、高窓は三〇×九五センチの大きさである。丁度冬のことで、空気の入れ換えをするのに使っていたのでカギをかけていなかった。刑事の話によると、二五センチあれば人間の頭が入り、頭が入ると休も入るそうだ。 私は毎日家計簿もつけているし、銀行が近いので余分な現金は家に置かない。夫も自分の小遣のチェックはきちんとしている人だから、お金がなくなると気がつくはず。まるで合点がいかない。 さらに刑事は、我が家以外に近所で二軒の被害があったと言った。 捕まった男は北九州を振り出しに約五百件の盗みを働き、その成果をすべて手帳につけていたという。部屋は荒さず、現金も全額は持っていかない主義で、何の痕跡も残さないというから、実に鮮やかな手口である。 犯人が捕まったことで嫁を疑っていた姑の疑惑が晴れたり、夫のへソクリがばれたりと、ひと騒動あった家が多かったと刑事は付け加え、私たちを見た。それでもやはり心あたりもなければ実感もわかない私たちは、互いに顔を見合せてしばし茫然としていた。 よくよく考えてみると、私は夜中に起きてリビングでお茶を飲むことがある。その日に限ってぐっすり眠っていたのだろう。もし泥棒と鉢合わせしていたらと思うとゾッとする。 なにしろ、 「金を出せ」 と刃物を突きつけられても我が家には泥棒が満足するほどの現金は置いていない。ぐっすり眠っていてほんとうに助かった。 一週間ほどして、大分に赴任している長男が帰宅した。泥棒の話をすると、 「金額も合うし、僕のかも知れない」 と言う。 息子はだいたい金曜日の夜福岡に帰り、日曜日の夜大分に戻ることが多い。帰宅すると、いつもバッグをリビングのテーブルかソファーに置きっ放しにするので泥棒の目につきやすかったのだろう。本人は財布ごと失くなっていたので、てっきり落したと思っていたらしい。私たちには言わなかったので知らないでいた。 「全額は持っていかない」というその泥棒の主義には反するが、息子のお金であったとすると帳尻があうので、やっと「盗られた」ということになった。 盗人と聞くと恐しい感じがするが、泥棒といえばどこか愛矯があって恐くはない。私たちの年代では、つい頬かぶりに唐草模様の風呂敷づつみを想像してしまう。 ふと私は語源が気になり大言海を引いてみた。 『泥田を棒で打つように、なんの差別もなく理不尽にことをなすこと、泥棒は盗賊にあらず、遊蕩の専門用語なり』 「エェッ! 泥棒は盗賊じゃあないのか。驚いたね……」 私は思わずひとり言を呟いた。 我が家に入った「遊蕩者」を、警察では「忍び込み窃盗犯」と呼ぶらしい。 (平成七年十二月) 水鏡天満宮界隈 水鏡天満宮の朱色の鳥居に誘われてそっと境内に入ってみた。 小さな石橋を渡ると、足許の澄んだ水の中を沢山の鯉が泳いでいた。足音を聞きつけて寄ってくる。境内は古い大きな木々が枝を広げ、あたりはほの暗く、微かに樟の香りがした。 高層ビルに囲まれていながら、ここだけは別天地の静けさである。 お宮の側にある天神横町は先年火災にあって、去年新しく建てかわっている。以前、ここに「ばんじろ」という創作伽排の店があり、ベレー帽にパイプ姿のマスターが淹れてくれるコーヒーが有名だった。結婚したころ、夫と二人でよく通った店である。 昭和三十年代、福岡県庁はこのお宮の向い側に市内電車の線路を隔てて建っていた。入口には大きな鉄の門があり、左脇の小さな建物にはいつも制服姿の守衛さんが頑張っていた。正面に古い木造の本館、その前にフェニックスの植込みが繁っていた。当時、夫は福岡県庁の土木部で原鶴橋の設計を担当していた。毎日毎日残業がつづき、私は夕方になるとお弁当を持ってこの門をくぐった思い出がある。 もう四十年も昔の話だ。福岡県庁が博多区の方に移転し、その跡地では今、十四階建てのアクロス福岡ビルが建設中で平成七年三月の完成という。天神一丁目界隈は大きく様がわりしつつあるが、ここ水鏡天満宮だけは失い鳥居のまま、ずっとここに居据わってほしいと思っている。 (平成六年十一月) 頑張れ紅ー点 S家のベランダいっぱいに布団が干してある。 三人の息子さんたちのものだろう。物干竿にぶら下っているTシャツ、Gパンが澄んだ青空に映えて今日もいいお天気だ。 山小屋風にデザインされた住居の玄関脇には五台の自転車が並び、車庫には二台の事が入っている。 私はこの家の前を通るたびに楽しくなる。明るく活気ある暮らしぶりが、かいま見られるからだ。つい気持ちが和んでくる。 四十代のご主人は医者で、バス通りを入ったところでクリニックを開業している。夫人は「目はパッチリと色白で…」という歌の歌詞通りの美しい人である。Gパンの似合う溌剌ママといったところだ。 三人の男の子やご主人、男ばかりの中で文字通りの紅一点。 以前、私も同じような立場であった。息子こそ二人であったが、老父の介護もあって毎日戦場のような忙しさの中にあった。男ばかりの殺風景な世帯の中で太陽のようにありたいと健気に頑張っていたんだから…。 S家の人たちに、私はつい若いころの我が家の家族をだぶらせてしまう。 当時は私も 「男性に囲まれて、奥さんはモテモテでいいですね」 とよく言われたが、なんのなんの。家事を肩代りしてくれる娘がいないというのは、しんどいものである。 そんな我が家も老父はすでに亡く、夫も停年、息子も年が明けると結婚する。先日、私にもシルバー手帳がきた。 色槌せたりといえども紅一点。もう暫くは頑張らねばなるまい。 (平成五年十一月) 柿若菜 家の庭に実のなる木が三本ある。 六月下旬に赤いルビーのような実をつける夏グミ、夏の終りごろ、手のひら状の葉かげに熟れた花托をのぞかせるイチジク。秋空に鈴なりに実をつける富有柿。夏グミはほとんど野鳥のエサになってしまうが、イチジクと柿は私たちの暮らしに彩りを添えて、いろいろと楽しませてくれる。 イチジクの木は、西日本新開「あなたの掲示板」がとりもつ縁で手に入れた木だ。桝井ドーフィンという西洋種でとても味がいい。まだ木が若く、いまのところあまり沢山の実はつけないが、私は早起きして良く熟れた実をちぎり冷蔵庫に冷やしておく。 切り口から白い樹液をだし、赤く熟れて少し割れ目がついたイチジクはどっしりと重くて美味そうだ。毎日、家族の人数分だけ熟れるとは限らないので一応食べる順番を決めておく。大きくて美味しそうなのが夫に当ったりすると、私は、 「半分頂戴。明日半分返すから」 と言って取り上げるので同居している姪が笑いだす。 夏グミとイチジクはお隣との境にあって、部屋から眺めることはできないが、柿の木は勝手口の左側にあり食堂の窓からよく見える。この木はOさんの息子さんから貰った高校卒業の記念樹で卒業式の日、植える場所がないからと紅白のリボンのかかった苗木を持ってきてくれたもの。五〇センチほどの枯枝のような苗木であったが、二十年たった現在、四方に枝を伸ばし、見上げるほどの大木に育った。そして秋には立派な富有柿がとれる。 私は五月の若葉のころの柿の木が好きだ。早春、裸木の枝先を僅かに膨らませ、やがて羽化した蝶の羽のように軟らかな葉を広げはじめる。毎日少しずつ葉の数をまし、杖一面に広がったとき、裸木は見事な柿若葉に変身する。 木の下に立って見上げると、晴れ渡った五月の空の下、明るい陽光をいっぱいに浴びた若葉がつややかな黄緑に光る。風にそよぎながら若葉が揺れ食堂の窓ガラスを通して部屋の壁を黄緑に染める。あたり一面に精気があふれでているようだ。 私は、美しいな! 美しいな! と一日のうち何度も木の下に立ったり、窓辺に寄って柿若葉を眺める。柿の葉ずしを作ったり、天ぷらにしたりと、こまごましたことの苦手な私は、ただ眺めて嬉しがっているだけなのだ。 最近では植物に話しかけて可愛がると良い結果がでるとか言われている。温室のメロンにプラームスを聞かせて育てる時代だ。 若葉のころ、私の褒め言葉を開いて育った我が家の柿の木は、きっと気をよくして秋に美味しい沢山の果実をつけてくれるのだろう。 (平成三年五月) |