第4回連載 私の句点 − 私のこと

二十歳のころ

 二十歳のころ、「発表」という題の作文を書いて、生まれて初めて原稿料を手にした経験がある。薬剤師国家試験の合格発表の様子を書いた作文である。
 もう遠い昔の話だ。昭和二十五年ごろ、朝日新聞社から『婦人朝日』という雑誌がでていて、読者から募る「私の作文」という欄が呼びもののひとつになっていた。その欄へ投稿した文章が活字になり、いくらだったか忘れたが原稿料をもらった。雑誌は四年ほどで廃刊になったように思うが、私の手許には『娘の作文』という一冊の本になり、八十二貝に掲載され残っている。昭和二十八年三月に六輿出版社から定価一九〇円で出版されたものだ。
 私たちの小学生のころは割合に作文に力を入れた教育が行われていて、国語の時間によ〈作文を書かされた。その後、女学校時代は学徒動員、専門学校は理科系で、文章とは縁遠く暮らしていた。そんな時代の作文である。

    
発表
                       西宮市 安井信子

 八月二十入日薬剤師実施国家試験発表。ああ、実施試験からもう一ヵ月経ってしまった。一ヵ月間少しのことにも神経をとがらせイライラした日を送ってきたのだが‥。
 時計が止っても、鉛筆の芯が折れても発表と関係づけて悪い方にばかりとってきた。十時きっちり三の宮駅の改札で、というMさんとの約束にも十分遅れてしまった。しばらくの間、二人とも黙って兵庫県庁に向って歩いた。
「どうやろね」
 というMさんの言葉がきっかけになって、私は昨晩の夢を話しだした。
 何の試験か分からない。とても難しい試験だった。Mさんは私の隣でスラスラとペンを走らせている。私は考えても考えても答がでてこない。無意識に机の中から本を引出して平気で解答を始めた。途中でハッと気がついて急いで本をひっこめた。背後から突然先生が現れて「先生はずっと貴女のすることを見ていました」と、厳しい顔で言った。
 私は、夢中で出鱈目の弁解をしながら「しまった、卒業まぎわにこんなことをしてしまって…。」と蒼ぎめた。
「私、あかんかも知れへん」
 Mさんは
「絶対安井さんはパスしてるわ。私は自信あらへん」
「いやぁ、それ反対やないの」
 と言い返した。
 雨は相変らずビショ、ビショ降って寒いように感じた。三の宮のガード下に釆たとき、二人同時に
「ここ、通って行かへん」
 と言って傘をつぼめた。いつもなら、ハンドバッグや靴、洋服など一軒一軒のぞいて歩くのに、今日は見むきもせずに通りすぎる。途中で同じクラスのYさんに会った。Yさんは合格とのこと。私たちのことを開くと困ったような顔をして、
「私、自分のだけ見てきたんよ。二人とも大丈夫やわ」とにっこりした。私たちはドキリとして、駄目だからYさんこんな返事をしたのだ
と勘ぐった。だんだん県庁に近づいてくる。
 Mさんが
「まだ遠いの」
 と開いたので、私はわざと平気を装って
「すぐそこよ」
 と答えたが胸がドキドキ鳴っている。白い建物が見えはじめた。Mさんは、
「私、もうあかんわ、よう行かん。帰るわ」
 と言いだすので、私もおじけづいて暫く雨の中に立っていた。やっとMさんが元気をだして、
「合格してるわね」
 と言ったときは、私のほうがペッチャンコになっていた。
 入り口が見えだした。友だちに合わないかしらと見廻したが、とても静かで受付の小父さんが本を読む目をあげて眼鏡ごしにジロリと二人を見た。ゆっくり、ゆっくり一段ずつ階段を上っていった。胸が鳴ってMさんに聞こえないかしらと思うくらい。階段を昇りつめたところに番号を書いた紙が貼ってあった。
 急いで二三三番を探したがない。「シマッタ!」と思ったとき、
 「二人とも、おめでとう」
  というSさんの声に驚いた。私たちが見たほうは保健婦さんので、反対側の壁に薬剤師実施国家試験発表と書かれた長い紙に番号と名前がでていた。あった! あっ た! 二三三番、安井信子、穴のあくほど見つめてからMさんを見ると「我等が生涯の最良の日ね」というような顔でにっこりしていた。
               (西宮市今津曙町百十一番地 二〇歳)


 いま読み返してみると、あのときの出来事が昨日のことのように鮮やかに廼る。作文以上の何物でもない拙い文章だが、私の二十歳の或る日、或る時の心模様が古いスナップ写真を眺めるように険しく思い出される。

(平成十年十一月) 




朱色の思い出


 ある日テレビのワールド・ニュースを見ていると、朱色のスーツを見事に着こなした女性キャスターがいた。
 斎藤茂太氏はエッセーの中で、ベスト・ドレッサーの必要条件は勇気、積極性、バランス感覚、場所と時の適応性だと書いていた。
 彼女は、まさしくそれらの条件を満たしたベスト・ドレッサーで、仕立のいいテーラードスーツに太目のゴールドのネックレス、理知的な容貌は勇気と積極性を感じさせるものがあり、午前中のテレビ出演には申し分のない雰囲気であった。
 もう四十年も昔の話であるが、実は私も朱色のスーツを着たことがある。二十四歳の夏、従兄の大学時代の友人であった夫との結婚の話がすすみ、西宮から福岡の彼の実家に挨拶に行くことになった。
 そのころ、私は神戸の三宮にある総合病院で薬剤師として働いていた。
 神戸は外国人の多いハイカラな町で、優雅なサリー姿のインド女性や、明るい色の洋服を着たアメリカ人、その他さまぎまな外国人を見慣れていたので、朱色の洋服を着ることに何の抵抗もなかった。
 昭和三十年代、まだ新幹線も開通しておらず、三宮から博多まで今なら約三時間で行けるが、そのころは「かもめ」 で十時間近くもかかった。
 私は福岡生まれで三歳まで福岡市内で暮らした。母から福岡の話はよく聞いていたのでこの旅行を楽しみにしていた。
 ところが博多駅に着いてがっかりした。まだ古い駅舎のころで、初めて見る博多は想像していたよりずっと田舎だった。彼の実家は西鉄大牟田線の大橋にあった。住宅地として開発された土地で、久留米の家を処分して引越して釆たばかりであった。今でこそ高層マンションが立ち並んでいる大橋だが当時、家の周囲は水田で、青々とした早苗が風に波打ち、裏の用水路には、のんびりと鮒が泳いでいた。
 教育者だった彼の両親は、すでに年金暮らしに入り、静かに余生を送っていた。そこへ派手な服装の娘が現れたので二人は度胆を抜かれた様子である。後で聞いた話だが、姑は息子を物陰に呼んで
「あんな細い体で子どもが産めるのかね」
 と首をかしげたそうである。そのころの私は身長一メートル五七センチ、体重四人キロであった。自分では痩せているとは思っていなかったが、濃い色の洋服だったから痩せっぼっちに見えたらしい。
 翌日、彼の姉さんが住んでいる久留米に行くことになり、私は彼に連れられて急行電車に乗った。久留米は福岡よりもっと田舎であった。家の前で立ち話をしているオバさんたちは話を止めてジロジロと私を見た。道で遊んでいた腕白どもも、
「ポスト、ポスト」
 と大声で離したてた。当時のポストは今と違い、朱色の円筒型で、どっしりと存在感があった。傍にいた彼は素知らぬ顔をしていたが、後々この話がでると
「あのときは閉口したぞ」
 と言う。
 若いというのは困ったもので、勇気や積極性はあったけれど、バランス感覚と場所、時の適応性に欠けていたらしい。
                                     (平成十年十一月) 




内緒話


 遠い違い昔の懐しい話。
 私たち夫婦は昭和三十一年の結婚当初から夫の両親と一緒に暮らした。
 夫は後添いの子として舅が五十六歳のときに生まれているので、息子夫婦というより孫夫婦といっていいほど年齢の開きがあった。
 当時入十七歳の舅は、腰は「く」の字に曲り、目も耳も不自由で、一日中揺り椅子に腰をかけて庭を眺めたり、大きなルーペを使って本を読んだりしていた。
 テレビやラジオをつけても無関心で、本を読みあきると、うとうと居眠りをはじめるのだ。
 私は祖父母の愛情を知らずに育っているので、こんな老人と身近に摸するのは初めての経験であった。
 耳が遠いので会話をするのに随分骨が折れたが、少しずつ要領も分ってきた。ゆっくりアルトでしゃべればいいらしい。
 舅と姑の会話は、夏などガラス戸を開けておくと、隣近所まで聞こえるほどであった。「お宅は昨日、遺言があってましたね」
 と近所の人から言われ閉口したこともある。舅は姑に、よく大きな声で自分の死んだ後のことを話していた。家の者はまたかと思って聞いていたが近所の人は驚いたことだろう。
 当然、私も舅と話すときは耳の近くで大きな声をだしていたが、あまりに年齢の差があり話題は限られていた。
 優しい人で、なにか手を貸してあげると、
「すまんのう」
 と久留米弁でお礼の言葉が返ってきた。
 私は舅の散髪、手足の爪切り、膏薬貼りなどの世話をした。姑は舅より二十歳も若く、まだ六十代であったが血圧が高く、自分の体と折り合って暮らすのが精一杯で、舅の世話はほとんど出来なかった。
 そんな或る日のこと、両親が茶の間でなにか話していた。
「信子には男がおるばい。きょうハガキがきちょった」
 いつもの大きな声で舅が姑に内緒話をしていた。私は襖を開けようとした手を止め、そこに棒立ちになってしまった。
エッ! 何? 自分のことを言われているのだが心あたりがない。よくよく考えてみると、午前中Nさんからエアメールが届いていた。別にどうという関係ではなし、きれいな絵ハガキだったから茶の間のテーブルの上に置いたままにしていた。そ
れを舅が見たらしい。
 そうか、教育者でもあった明治三年生まれの舅からみると、男性からの一枚の絵ハガキでも誤解される関係になるのか。
 腹の立つような、おかしいような複雑な思いで私はしばらく襖が開けられないでいた。

(平成四年六月) 




私


 昭和四年、福岡市に生まれる。
 神戸女子薬学専門学校(現・神戸薬科大学)卒。
 昭和三十一年結婚。二人の息子に恵まれる。
 私のプロフィールを紹介すると、たったの三行ですんでしまう。
 小学校のころ、通信簿の性格の欄には一年生から六年生まで、「温和、従順」と書かれていた。先生の目にはおとなしい女の子と映っていたのだろう。だが実際には活発な面もあって体を動かすことが大好きで、自分では「舞踊家」になるのが夢だった。毎日のように自作自演のダンスを披露しては家の者に笑われていた。
 父は明治二十二年生まれであったが、進歩的な考え方をする人で「これからは女性でもいざというとき自立できなければいけない」と、つねづね私や妹に言っていた。そして、薬剤師の資格をとるか、語学をしっかり身につけるように勧めた。
 こんな父の勧めがあったおかげで戦後の混乱のまっ只中、迷わず進学できたことは非常に恵まれていたと言える。実際入学してみると、講義の合間の雑談では、
「君たちには薬剤師免許をとっても、免状はタンスの中に仕舞っておけるような幸せな結婚をしてほしい」
 と言われるような中途半端な時代で、資格はたんなる嫁入道具の一つとも考えられていた。自立を勧めた父でさえ本心はこんなところだったのかも知れない。
 公務員の夫と結婚したが、昭和三十年代の公務員の給料はとても薄給だった。いざというときは結婚と同時にやってきたわけで、早速共働きを始めた。夫は典型的な九州男子であったから家事も育児も、舅や姑の介護もすべて私の肩にかかった。お手伝さんに助けてもらって何とか頑張り通したが、私には辛い時代で何度も挫折しかかった。私の二十五歳から四十歳までの十五年間である。
 老親の看取りが終ると、こんどは夫の転勤が始まり十年ほど福岡を離れ佐賀、岐阜、盛岡と移り住んだ。仕事を続けるには別居しかない。だが昭和二桁昔人間の私は「家族は一緒に暮らすもの」と考えていたので、迷うことなく専業主婦に収った。
 息子たちは冗談まじりに「お母さんは明治の生き残りみたいだ」と言う。この思いがけない言葉に私はショックを受けたが、考えてみると十六歳の終戦まで古い教育を受け敗戦で接ぎ木のように新しい教育を受けた。私は根っこの部分に古い道徳観を残している。それに加えてあまり我を通さないで周囲と折合って行く私の生き方も息子たちの目に「明治の生き残り」と映るのだろう。
「舞踊家」になり損った私は、やはり通信簿通りの性格だったのだろうか。

(平成九年九月)




要之助先生


 はずみというものは恐ろしい。
 プールから帰ると、いつも耳の中に入った水を綿棒で拭きとっているが、その日は左の耳がとても痺かったので竹の耳かきを使った。
 十八センチぐらいの長さで先の方に白いボンボンのついたおなじみの耳かきだ。行儀悪くソファーに横座りして使っていたところ、ぐらりと体が傾いた瞬間、ポッと耳かきが奥まで入りこみ、鼓膜を突いたらしい。ほんの一瞬のできごとであった。とたんに反対側の右耳の奥の方でゴウゴウと換気扇を廻すような音がしだした。換気扇は廻りつづけて止まらない。
 土曜日の午後のことで近所の耳鼻科は全部休診。私は急いで電話帳をくり、片っ端から電話をかけた。そして、三時から四時まで一時間だけ診療しているという、珍しい耳鼻科を探しあてた。その耳鼻科は電車で二つ日の駅の側にあった。自宅に隣接した小じんまりした医院である。
 待合室はがらんとして患者は一人もいない。すぐ名前を呼ばれて入ると、小柄な老先生が低くてどっしりとした椅子の上に座布団を敷き、その上に正座して居眠りをしている。もう七十歳は過ぎているような感じだ。
 こんな先生では……と少々不安になったが、一通り私の話を聞くと、ゆっくりと診察帽を着け、その上に額帯鏡をはめ診察を始めた。診察中、口をモグモグ動かすので入れ歯がカチカチ音をたてる。私は、ますます心配になってきた。診察は丁寧だがこれも不安の種。耳の中が見えないんじゃあないかしらと失礼なことを考えていると、
「う−ん。鼓膜が破れていますなぁ」
 と一言。耳の中を消毒し、脱脂綿を丸めて詰め込むとそれでおしまいである。
「時間が薬です。二、三日して釆て下さい」
 私は、あまり簡単な治療であったのでまじまじと先生の顔を見た。灰色の目が澄んで優しい。笑顔も見せず、無駄口もきかれないが温かく穏やかな雰囲気である。診察券には、「山田耳鼻科医院 山田要之助」と印刷されていた。この「要之助」という古風な名前が実に先生にぴったりだ。
 それから三週間、電車に乗って山田耳鼻科に通った。もう大体いいだろうということになったので、
「先生、ありがとうございました。お陰様で耳はすっかり元通りになりました。三週間プールを休みましたら、五百グラム体重がふえてしまいました」
 と話すと、「ワハハハ…」と先生は体に似合わぬ大きな声で笑った。そして、くるりと背をむけ、座布団の上に正座して目を閉じた。

 それから半年ぐらいたったろうか。
 電車の窓から見えていた山田耳鼻科の看板が外されていた。

(平成五年四月) 




エアロバイク


「通販生活」という雑誌をご存知だろうか。
 暮らしの道具が満載されていて、見るだけでもけっこう楽しい。
 特別付録の「ピカイチ事典」という買物のバイブルにも、品目別に四百二点の珍しい品がとりあげられていた。家事、料理、美容、収納などと項目別に分けてあるので見やすく便利である。
 この本の編集部では、環境基準をもうけて取扱う品物を選んでいるというから、実に頼もしい。
 通信販売というのはカタログだけで品物を販売する商法だ。つまり写真だけで自分のイメージをふくらませて買うのだから一種のカケみたいなところがあって、品物が到着するまでスリルがある。
 私もこれまでにいろいろな品物を買ってみた。洋服の組合せを考えるときに便利なハンガー、入院時重宝した半円型のクッション、隠し箱のついたジュ工リー箱、薄手の綿で肌ざわりのいいアメリカ製の下着、目盛りがきぎまれている塩田ミチルのクッキングボトルなどなど。
 少し高価な感じもするが、市販されていないものばかりで、そのうえ品物がしっかりしていて満足でき、返品もきくので安心だ。
 六年前、健康診断で尿に糖がでた。精密検査の結果、糖尿病と診断され、一日千五百カロリーの食事と一日七千歩の運動処方が決まった。ところがこれをクリアするのはなかなか大変な仕事であった。
 午前中、我が家から那珂川の上流に向って三十分歩いて引き返す。これがちょうど七千歩で約一時聞かかる。時間的に余裕がなかったり、雨の日があったりすると散歩ができない日がつづく。そんなとき通販生活でエアロバイクが目についた。
「エアロバイクならウォーキングと同様の持久力がつく」
 というウォーキング学会会長のコメントがついている。
 最も運動効果の上がる心指数を維持しながら歩くという、初心者にとって難しい問題もクリアできるようだ。写真のエアロバイクもスマートな形で、モデルの外人女性がにこやかに使用している姿も素敵だ。
 これだ! 十万円もするが健康には代えられない。十回払いの分割なら私の小遣いの範囲内でまかなえる、と迷うことなく早速申し込んだ。
 間もなくピカピカのエアロバイクと小冊子が届いた。食堂のテーブルを脇に寄せ、エアロバイクを置くスペースを作った。
 運動のことに詳しい長男に指導してもらい、自分の体力に合せて運動メニューを作って使ってみたが、これがなかなかしんどい。全身にしっかりと汗をかき、心臓はドクドクと音をたてる。カタログにでていた美しい女性のように爽やかな笑顔なんてできるものではない。ブルブルと汗を流し、ハァハァ呼吸している写真など載っていないので、こんなに大変だとは思ってもみなかった。
 雨の日とかウォーキングに行けない日だけと思っていたが、そんな日でさえ利用することなく、食堂の隅にカバーをかけたままになってしまった。
 そして現在、エアロバイクは食堂から物置に移され、日の目を見ることなく眠っている。

(平成四年八月) 




同窓会


 NHKで朝の連続ドラマ 「ひらり」が始った。
 石田ひかりが生きのいい下町娘を演じていて楽しい。彼女のおじいさんが
「よく考えたら、あとは『ひらり』と飛ぶように」
 とこの名前をつけたそうで、長く生きた人らしい言葉だと思った。
 先日、天神の「てら岡」で母校神戸女子薬大福岡県支部の同窓会があった。県内には約百五十人ぐらいの卒業生がいるが、出席者はいつも三十人程度である。
 私は第十六回昭和二十五年の卒業生なので、大先輩と呼ばれて「どうぞ、どうぞ」と上座に奉られる。同期で勤めていた人たちもすでに定年だが、開局したり、ご主人の医院を手伝っている人はいまだ現役で忙しい毎日を送っている。
 若い人たちは仕事のこと、共働きや子育ての悩みなど熱心に話しあっている。年配組はまず健康のこと、娘や息子の縁談に花が咲く。そのうちどこからか見合写真や釣書が廻ってくる。
 私は十年先輩のY先生と同席した。すでに七十歳はすぎているが背中が少し丸くなっているだけで嬰轢として美しい。いまだ現役で週に三日勤めにでていると聞いて驚いた。ちょっと見ると普通のおばあちゃまだが、日の輝きが違う。アメリカ人と結婚した娘さんがガンで日本に帰り入院していること、アメリカ人の婿と孫が釆ているが言葉が通じず顔を見合せているばかりだと悩みを打ち明けられた。
 私は二十年働いて仕事をやめた。夫の転勤について行ったので仕事をつづけられなかったが、仕事をつづけたいという気持は埋れ火のように消えていない。別居して自分の仕事をつづけてもよかったんじゃあないかと思うこともあったが結局自分の思いを通さず専業主婦に収った。
 ここ四十年ぐらいで薬をとりまく情勢が大きく変ってきた。医薬分業がすすみ国立病院も大学病院も院外処方を出しているので、街の薬局では調剤する薬剤師が不足して、私にまで再就職のさそいがたびたびかかってくる。
 だが体力に自信がもてず決心しかねている状態だ。働くことに反対はしないが、協力もしない夫では、ひとりで若いころのように家事と仕事の両立は難しいだろう。
 いま私はラストチャンスを前にして飛びたいのに飛べないでいる。ひらりと飛んで骨折したということになりかねないから…。
 でも、私はひらりと飛んでみたい。

(平成五年十一月) 




整骨院適齢期


 このところ、明け方になると背中の痛みで目が覚める。
 背中がだるいような痛みである。きょうこそは病院に行こうと思って起きるが、食事の用意や洗濯など忙しくしていると、ついコロッと忘れてしまう。
 翌朝も背中の痛みで目を覚ますが、また雑用に追われて忘れる。こんなことを繰り返しながら一週間がすぎた。
 実は以前にも一度、背中の痛みで整形外科にかかったことがある。その時、鎮痛剤の注射を打たれたために、夢遊病者のようにフラフラになり、やっとの思いで家にたどり着いたのだった。
 そんなわけで私は、どうも整形外科は気が進まない。そこで近くの整骨院に行ってみることにした。
 午前中の整骨院はお年寄が多い。近所の顔見知りの人たちもいて、夫婦揃って治療にきているので、骨の具合の悪い人がこんなにいるのかと驚いた。
 診察が終ると
「奥さん、胸骨が曲っていますよ。このままにしておくと前屈みのバアチャンスタイルになります。そんなのは厭でしょう。いまなら伸ばせますから毎日きて下さい」
 と言われた。
 きた、きた。変形性脊椎症という老化現象がやってきた。バアチャンスタイルと開いて、私は咄嗟にタンスの中に放りこんだシルバー手帳を思いだした。
 半年前、私は六十五歳になり福岡市からシルバー手帳をもらった。これは老人になった証明書のようなものだ。内心「まだ一寸早いんじゃあない」という気があって、有難いよぅな有難くないような微妙な気持になり、ポイとタンスの中に放りこんだままである。
 いくら自分は若いつもりでいても、背中の痛みが確実に老いの兆しを見せている。
 先日、テレビで日本女性の平均寿命が八十三歳になったと発表していたから、私は人生の下り坂の中ほどまできていることになる。バアチャンスタイルになったとしても不思議ではない。
 曲った骨が伸びるなんて半信半疑だけれど、背中の痛いのもバアチャンスタイルも厭だ。
 そこで近所だし、しばらく通ってみることにした。
 朝、身仕度をととのえて
「お父さん、整骨院に行ってきます」
 と声をかけると、夫は読んでいた新開から顔をあげて一言、
「ああ、骨の修繕か」

(平成七年六月) 




助六豆


 美味しいものを見つけた。
 大豆をソフトに炒って、ゼラチンで細切海苔をからめた「助六豆」だ。大豆の淡いみどりの薄皮がはじけ、中から小麦色の肌がのぞいている。
 二、三粒口に放りこんで噛むと、ポリポリといい音がして、香ばしい香りが口の中いっぱいに広がる。
 私は三年前に胃の手術をしてから、食べ物の嗜好がすっかり変ってしまった。
 大好きだった肉、卵、乳製品など栄養価の高いものが駄目になり、無理して食べると具合が悪くなる。
 結局、魚や豆腐などの老人食といわれるへルシーな食品がテーブルに並ぶことになった。
 胃が三分の一になったので、食事の一回量が少なくなり補食をとらなければならない。なるべく栄養価の高いものをと探しているときに、デパートのお菓子売場でこれを見つけた。好きなときに好きなだけ手軽に食べられるので重宝している。
「助六豆」をつまみながら、いつかこんなふうにして大豆を食べた
ことがあったのを思いだした。
 そうだ。あれは戦争末期の昭和二十年ごろのこと。食糧が極度に欠乏し、米の代りに大豆ばかりが配給されるようになった。空襲の合い間に大豆を焙烙で炒り、代用醤油に漬けて味を含ませ、おやつを作った。炒りたてのアツアツの大豆を醤油につけると、「ジュッ」と音をたてる。蓋をしておくと豆は二倍ぐらいに膨らんで軟らかくなる。
 途中で空襲警報が発令されると、炒りかけのガスの火を止め、慌てて防空壕に飛び込まなければならない。空襲が解除になって台所に戻ると、焙烙の余熱で大事な豆はまっ黒焦げになっている。逆に中途半端に炒ったものを醤油に放りこんでおくと、皺だらけのまずい味付大豆ができあがり、悲しい思いをしたものだった。
 十五歳。育ち盛りの私は、毎日毎日黙ってこの豆を食べ、戦争に勝つことを信じていた。
 この辛い体験は、しっかりと私の中に根をおろし、五十年たっても食べ物を粗末に扱うことができないでいる。
 スーパーやデパートの溢れるような食品の山の中で、たびたび「こんなに豊かでいいのだろうか」と空恐ろしく思うことがある。「助六豆」は私に半世紀前の戦争と代用醤油の味がしみた大豆の味を思い出させた。

(平成八年九月 市民文芸) 




山彦が返る日

 ある日、何気なくテレビを見ていると、女優の富司純子が、「今までで一番嬉しかった贈物は」という質問に対して「母の日に子供から貰った手紙」とにこやかに答えていた。
 手紙をもらうことがそんなに嬉しいという彼女なのに、実は筆不精で、夫の尾上菊五郎と婚約していたころは、もっぱら電話ばかりだったそうだ。通話料が嵩み、お姑さんになる人から苦情がでたという。
 そう言えば我が家の長男も婚約時代、毎晩十一時になると電話をしていた。二階に専用の電話をつけていたので、私から通話料のことで苦情を言ったりはしなかったが、かなりの長電話だったようだ。
 私の夫も手紙が苦手な人で、結婚して四十年にもなるというのにハガキ一枚もらったことがない。長いヨーロッパ旅行中も、とうとう絵ハガキ一枚よこさなかった。
 いや、結婚前に一度だけ長い長い手紙をもらったことがあった。勤め先を欠勤して一日がかりで書いたという手紙は、まるで論文。およそラブレターと呼べるような代物ではなかった。だが、どっしりと掌に重い封書の感触とライトブルーのインクの色は今も鮮明に思い出すことができる。
 二人の息子たちは父親に輪をかけたような筆不精だ。家を離れ社会人になった二人から、これまた一通の便りも受け取ったことがない。すべて電話でことを済ませてしまうのだ。
 長男が大学を卒業して福岡に引上げてきたときのこと、洋服箱の中にぎっしりと詰った手紙の束を見つけた。塵をかぶった箱の蓋を開けると、プーンと徽の匂いがした。よく見ると、大学の四年間に私が出した手紙であった。日付順にきっちりと揃えられている。よくも書いたものだと自分の書いた手紙の量に驚いたが、大切に保存していた息子の気持ちは嬉しかった。私の知らない彼の半面をかいま見た思いがした。
 次男は広島の大学に進み、そのままその土地で就職したので私の出した手紙がどうなっているかは分からない。次男も手紙はよこさないが実に上手に電話を利用する。父の日、母の日、誕生日と電話でリップサービスをする要領のよさは、必要なことしか言わない長男と対照的である。
 私は電話をかけるよりも手紙やハガキを気軽に出す方が好きだ。字は拙いが書くことは苦にならない。友人から、
「あなたは山彦みたいな人ね」
 と言われたことがある。すぐ返事が返ってくるということらしい。
 二人も息子がいるのに私のDNAを受けついだ者はいない。だから私は嬉しい手紙を受け取ることができずにいる。
 こんな時勢だから、筆まめなお嫁さんが現れることなど、とても期待できないだろう。こうなったら、せいぜい長生きして隔世遺伝とやらに望みをたくし、まだ見ぬ孫からの手紙を待つことにしよう。

(平成七年十月)




香 水

 私は香水が好きだ。
 実家が化粧品の製造業であったことと関係があるかも知れない。父は職業柄、香りに敏感で工場の試験室でいろいろな香料を調合しては、子どもの私にも感想を開いた。
「これは花の匂い。こっちのほうは果物の匂いがする」
 子どもながら的確な批評をするので父は、
「お前は鼻が効くので調香師にむいている」
 とニコニコと満足気であった。そして外国には香りを嗅ぎ分けたり香水を創ったりする調香師という仕事があること、香りにはローズやジャスミンのような植物性のものと麝香という鹿からとる動物性の香りがあると実物を匂わせて教え、
「フランスに勉強に行くのもいい」
 と夢のような話をした。
 現在のように気軽に誰もが海外に行くという時代ではなく、六十数年昔の話である。こんなことが私の小さい頭の中を領し、香水を身近に感じるようになったのだろう。
 こんな私であったが土木技師の夫と結婚し平凡なサラリーマンの妻となった。高価な香水には縁のない倹しい暮らしの日々であったが、魅惑的な香りへの憧れは忘れられず家計のやりくりをしてシャネル、ディオール、バルマンなどの香水を使ってきた。いまは冬はゲランの「ミツコ」、夏はディオールの「ディオリッシモ」と決めている。
 冬は着物を着ることもあるので、東洋の女性をイメージして創られたという「ミツコ」を選んだが、外国人の創った香水はやはり私の思っているイメージとは少し違う。だが、いまのところピッタリくるものが見つからないでいる。夏に使っている「ディオリッシモ」は気に入っている。深山の苔の香りがして非常に爽やかで好ましい。イギリスのダイアナ元妃が来日したとき使用していた香水だと雑誌にでていた。なんだか親近感を覚えた。
 無神経に使って周囲を辟易させる香水は逆効果だ。私がよく行くブティックの女主人は強い香りをさせる人で、洋服を選ぶ間強烈な香りをかがされ閉口している。私は普段は薄目のオード・トワレ、一寸おしゃれをして外出するときは香水を使う。
 蒸発しやすいことをつい忘れて、すっかり空になってしまい悔しい思いをしたこともある。
 香水は、ふとしたはずみに匂う程度が好ましい。

(平成四年七月)




秋色の街で


 私は閉所恐怖症気味である。
 マンションの小さなエレベーター、飛行機の座席など狭いところが大の苦手だ。
 家ではいつもドアや襖は開け放しにしているし、夏になると窓や縁側のガラス戸など手当り次第に開け放ってしまう。
 そんな性格だから、シャッターという言葉を聞いただけで閉じこめられそうな気がしてきて、あまりいい気持がしない。
 このごろは銀行も郵便局も土曜日が休日となり、商店もきっちりと休むので、街の中でもシャッターが下りているところが多い。昔の商店はガラス戸に白いカーテンを引いて、「本日休業」と木の札が下げてあり、優しく暖かい雰囲気があった。今のような金属性のシャッターは、ピシャリと拒絶されたようで冷たい印象を受ける。
 以前、近所の商店街に老夫婦の経営する古い薬局があった。隣のバーから出火して店は類焼、焼け跡のシャッターのすぐ手前で、二人は折り重なるようにして亡くなっていたそうだ。逃げるに逃げられなかったのだろう。ガラス戸であったら助かったのではと残念に思った。
 また最近こんな話も開いた。
 それは郵便局の現金自動預払機のボックスで起った。
 浄水通りの郵便貯金会館(現・メルパルク)の前に、クローバーの絵のついた洒落た現金自動頚払機のボックスがある。夕方、友人のご主人がカードを入れてお金を引出そうとしていると、するすると上からシャッターが下りてきた。受付終了時間が釆てしまったのだ。急いでお金とカードを抜きとり、振り返ると入り口のシャッターも下りているではないか。うろたえて周囲を見廻すとなんだかボタンのようなでっぱりがあるので押してみた。すると幸いなことにシャッターの下が少し持ち上がったので、一気に引上げ脱出したとのこと。
 私は友人の話を息をつめて開いた。自分だったらどうしただろうか…。きっとパニックに陥って冷静にことを運ぶことが出来なかったに違いない。ボタンのようなでっぱりなど目に入らなかっただろう。
 先日、浄水通りまででかけたのでそのボックスを覗いてみた。三面がガラス張りで時間がくると自動的に機械の前と出入口の二ケ所にシャッターが下りる仕組になっているらしい。郵便貯金会館ではコンサートが催されており、けやきの並木は秋色を帯び始めていた。
 こんな洒落た優雅な街で現金自動預払機のボックスに閉じこめられるなんて、私にとってはコワーイ話だ。
 ミステリー映画の一場面が浮かび、自分が閉じこめられたような恐怖が身を包んだ。

(平成六年十月)




私の句点


 私はコーヒーが好き。一日に三杯は飲む。
 朝起きるとまず、コーヒーメーカーをセットして洗顔する。香り高いコーヒーをカップに注ぎ角砂糖一個とミルクを入れてまず一杯。朝の目覚めと水分補給の一杯だ。頭がハッキリしてからパンを焼き果物をむいて朝食をとる。
 二杯目は昼下がり。外出先で飲むことも多い。行きつけの店は天神コア地階の白樺。照明が明るすぎず、リラックスするのに丁度いいし、少々長居をしても厭な顔をされない。講演会や映画を観たあと余韻を楽しんだり、上の階の紀伊囲屋で買った本を読むのに都合がいい。
 デパートで買物をした後は地下コーヒー売場の片隅にあるカフェ・ピットファクトリーに寄る。五、六人しか座れないカウンターなのでいつも満席のことが多く、運が悪いといくら飲みたくてもコーヒーにありつけない。ここで一休みしておくと疲れがとれて帰宅してから一気に夕食の準備にとりかかれる。この二軒のコーヒーは、さっぱりしていて私の好みにあうし値段も手頃だ。
 夫も息子たちもコーヒー好きだが、それぞれ好みが違っている。長男はアメリカンが好きでお砂糖抜きでガブガブ飲んでいる。夫と二男は濃くて酸味のあるのが好みのようで、行きつけの店も私とは違う。彼らは天神コアの風月がご贔屓で、親子でかち合うこともあるらしい。
 三杯目は夜。九時すぎになると私はビスケットなど軽い食べ物をつまみながらミルク入りコーヒーをとる。胃の手術をして胃が三分の一になってからは夜食を少しとらないとお腹が減って眠れない。今日一日のピリオドだ。
 そもそもコーヒーは火事でコーヒーの木が焼けたとき、実から良い香りがしているので飲用にするようになったとテレビで言っていた。
 また或る雑誌には、はじめ胃ぐすりとして用いられていたが、明治二十七年に東京銀座のカフェー・パウリスターが本格的なコーヒー店を開いて飲料になったと書かれていた。
 私にとってコーヒーは一つの句点のようなもの。ひと区切りついたところで先ず一杯。香りがいい。気持が落着くのがいい。ホッと寛げるのがいい。私は毎日句点を打つようにコーヒーを楽しんでいる。

(平成八年六月)




女は愛嬌


 子どものころ、多分七、入歳ごろだったと思うが私は鏡を見ながらよく母に文句を言っていた。
「お母さん、ワタシの鼻なんでこんなに低いのん」
「お母さんに似たけんたい。お父さんに似るとよかったとにね。女の子の鼻の高いのはけ ん高うてようなかよ。低いくらいのほうが愛矯があってよかと。女は愛檎!」
「お母さん、ワタシの目大きすぎる。それにちょっと吊り上って見えるもん、かいらし(可愛らしい)ことない」
「小さいより大きい方がよかやないね。ちょっと吊り上っとるのは若い証拠。年をとると下ってくるけん心配せんでよかと」
 九州出身の母は、関西に住んでもこんな風に博多弁が抜けなかった。
父は高い鼻と茶色の大きな目をしていて、よく外国人に間違えられた。母は黒目がちの涼しい目をしたソバカス美人だった。
 私は父から茶色の大きな目を、母から日本人らしい小さめの鼻を受けついでいる。
 昭和十年代、私たちは兵庫県の西宮市に住んでいた。近所に浅田さんという家があってその家に美人で評判の女学生がいた。目はパッチリと色白でセーラー服がよく似合っていた。女学生は朝夕、我が家の前を通って学校に通っていたのでたびたび顔をあわせた。
 ところがいつ見てもニコリともしない仏頂面なので、子ども心にも不思議に思い、母に尋ねてみた。
「なんで浅田さんのお柿さん、機嫌の悪い顔してはんの」
「なんでかねぇ−。綺麗かお嬢さんやが、ほんに惜しかね。信子ちゃんは、あげな顔したらできんよ。近所の人には笑顔で挨拶せんとねぇ。女は愛嬌! 大事ことやけんね」
 母は子どもの私に自分の容姿にコンプレックスを持たないよう、また笑顔が相手の心を和ませ、自分自身を美しく見せることをしっかりと教えた。
 先日のこと、午後のテレビ番組で美容整形のことを放映していた。
 春は進学、就職と人生の転機を迎えるときで、美容整形を希望する女性がとても多いそうだ。画面に登場したのは、この春高校を卒業したモデル志望の女性だった。
 東洋系の顔立ちでふっくらした丸顔で若々しく、別に整形をしなくても十分魅力的だ。だが彼女は目を二重瞼に、鼻を高くしてアゴをけずる手術を受けるという。「どうしてかしら」と私は首をかしげたくなった。が、彼女の「美しくなりたい」という熱意は画面を通してさえ見る人を圧倒するものがあった。
 十日間の入院で費用は九十万円。アルバイトで貯めたお金だけでは足りず親から借金するそうだ。娘から説得されやっと承知した母親が心配そうに
「手術の失敗ということはありませんか」
 と質問したところ、
「本人が満足すれば成功。不満足ならば失敗です」
 と医師は答えた。
 十日後、手術をした彼女はたしかに目は二重瞼に、鼻は高くアゴも心もち細くなり、親子ともに大満足で手術は成功したといえる。画面にクローズアップされた彼女の顔は自信に満ちていたが以前の彼女らしい初々しさや愛らしさが消えてしまったように感じた。そう思ったのは私だけだろうか。
美容情報が氾濫する世の中になり、姿や形のみにとらわれすぎ、ありのままの自分の容姿に自信が持てなくなっているのではないだろうか。
 いや、世の中変わったのだ。低い鼻を高く、目はパッチリと二重瞼にし、女性も自分の思うよう生きる時代が始まっているのだ。
 私はテレビを見て「女は愛嬌」と教えた母を懐かしく思いだした。
                                     (平成十年六月)


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