| 盛岡の冬 − 転任地での暮らし |
一夜中学校 今年も転勤のシーズンがきた。 近所のNさん宅にも、朝から大型トラックがきてバタバタと引越しが始まっている。 夫の現役時代、我が家も佐賀、岐阜、盛岡と慌しい引越しをしてきた。長男が中学生、二男が小学二年に進級する春、初めて佐賀に転勤した。佐賀駅に着くと子どもたちをタクシーに乗せ、明日から通うことになる新しい学校を見にでかけた。 城南中学校と赤松小学校は、鍋島藩三十六万石の城跡に隣接していた。中学校は満開の桜に囲まれた古い粗末な建物で、息子たちが、「ウワァー、おんぼろ校舎だ」と声を上げた。 小学校には国の文化財である鯱の門と石垣の一部が残っている。学校の周辺には蓮池があり、大きな銀杏や楠が風情を添えて佐賀らしい雰囲気があった。 ところが翌朝、テレビを見て棒立ちになった。昨日見た城南中学校が、漏電で全焼したという。始業式はとりやめ。臨時休校となって長男は浮かぬ顔のまま家にいる破目となった。 一方、始業式に行った二男は、下校時間を過ぎても帰宅しない。おろおろと心配しているところへ、電気屋さんの車に乗せられて帰ってきた。迷子になっていたところを送り届けてくれたそうだ。 親の転勤のために、子どもたちには随分と犠牲を強いてきた。岐阜でも盛岡でも、いろいろ苦労があった。だが過ぎてしまえばすべてが懐しい。とくに一目見ただけの一夜城ならぬ「一夜中学校」の思い出は、いまだに我が家の語りぐさになっている。 (平成七年一月) 屋根の低い家 久し振りにOさんからハガキがきた。 Oさんとは岐阜時代、同じ美島町の県公舎に住んでいた。ハガキによると私たちの住んでいた公舎が四階建ての鉄筋に建て替ったというニュースだった。 「ああ、よかった!」 思わず私は独り言を言った。それには一寸した理由がある。 終戦後、図書館の廃材を利用して建てたという県公舎は、粗末な木造平屋建てで屋根が低く、まるで帽子を深く被ったような感じのする陰気くさい家だった。 夫の転勤で昭和五十年の秋、佐賀から岐阜へ引越した。岐阜は町の中に緑の豊かな金華山、鵜飼で有名な長良川が流れる落着いた土地であった。ここで五年半暮らしたが、その間に次つぎに家族の者が災難に見舞われた。 引越して間もないころから私は体調がすぐれず医者にかかることが多くなり、翌年、名古屋大学附属病院に入院した。そして子宮筋腫の手術を受けた。知らない土地での入院生活は本当に心細かった。私の四十六歳のときである。 二年半ほど経った昭和五十四年一月、こんどは夫が胆石の手術をすることになった。一年ほど前から東京に出張する度に、往診を頼まなければならないほどの胃ケイレンに悩まされていたが、原因は胆石にあった。いよいよ明日は手術という日の夕方、一本の電話が入った。 「もしもし、お母さん。僕いま下関の佐島外科に入院している」 「えェッ」 「ドライブ中に、雨でタイヤが滑って柱に突き当ったんだ」 「へえ−。それでケガは」 「頭と顔に少し傷がある。あと左ヒザの関節とふくらはぎを打って松葉杖で電話口まできている……」。 私は息が止まるほど驚いた。全身の血が引き、座敷の真申に座り込んでいた。 大学二年だった長男は冬休みの休暇中で、友人の車で山陰の海岸をドライブ中に降り出した雨で車が滑り電柱に激突したという。家を出て怪我をするまでの丸一日間の記憶喪失があったものの二十日間の入院ですんだ。 私や夫が病気をしたのは年齢的にみても決して不思議ではないが、よりによって手術の前日に追い打ちをかけるような長男の事故は応えた。普段は迷信や占いなど関心のない私であったが気弱になっていて、 「ひょっとしてこの家、家相が悪いんじゃあないかしら」 と、つい隣家のTさんに弱音を吐いた。 「息子さんが命拾いしたんだから、よかったじゃあありませんか」 とTさんは慰めてくれたのだが……。 岐阜の人たちは日常気軽に車や自転車で金華山に登り、頂上からの展望を楽しんでいる。 息子たちもよくサイクリングに出かけていた。その年の秋、二男がひとりでサイクリングに出かけた。なにげなく取った電話で二男の事故を知らされたときの驚き。ガーンと頭を殴られたようなショックを受け、受話器を持つ手が震えて止まらなかった。 その日は祭日で夫は朝からゴルフに出かけ、私はひとり家にいた。急いでタクシーを飛ばし、教えられた病院へ急いだ。胸の動悸は収まらない。 二男は蒼白な顔色をして処置室のベッドに横たわり、傷の手当てを受けていた。シャツにもズボンにもべっとり血液がついていた。一目見て命に別条はなさそうなのでホッとした。 「よかったね。そのくらいですんで:…・」 と話しかけたが、彼は一言も喋らなかった。 下りの坂道で砂利にハンドルをとられガードレールに突込んだところを、通りかかった人が車で病院に運び、家に連絡をとってくれたのだ。 結局、右手親指の付け根に深い傷を負い、腕から皮膚を取って移植手術を受けた。いまも腕にはバッチワークのような傷跡が残っている。ガードレールの向う側は深い谷になっていたので、ガードレールに引っかかったのは不幸中の幸いであった。 私はとうとう家相の本を買ってきた。 「屋根の低い家は建築費を節約した家が多く、天井が低いので霊証が宿りやすく、災難にあう」 私はギョッとして、思わず低い天井をそっと見上げた。 「そんなバカなことがあるものか」 と、夫は問題にしなかったが私は心穏やかではいられない。屋根が低いから災難にあうのか、災難にあったから屋根に因縁をつけるのか、そんなバカなことはないのか、正直なところ答は出ないままだった。 間もなく盛岡に転勤が決った。やれやれ、やっとこの家から解放される。私は晴れやかな顔で近所へ挨拶まわりにでかけた。 「今だから言えるんだけど、あの家に越してきた人は不思議に代々婦人科の手術をするし、九死に一生を得るような災難に遭うんですよ。前のBさんの息子さんは山で遭難して助けだされたんです」 と別れぎわに隣のTさんが言った。 「えェッ!」 私はしんから驚いた。顔が強張り、すぐには後の言葉が出てこなかった。 あれから何年になるだろう。だが古い公舎が取り壊され明るい鉄筋に建て替ったと開けばホッとする。それにしても行き場を失った霊証とやらは、いまごろどこにいるのだろうか。 (平成四年五月) 救急車 長男が一一九番を廻すと、二男は救急車を迎えに飛び出した。夫は入院に必要な品物を揃えはじめている。 家の前に車の止まる気配がして担架が運びこまれると、私は毛布にくるまれ二人の救急隊員に担ぎ出された。玄関を出ると、さっと冷たい夜風が顔を撫で、輝く星が目の前に迫って見えた。 付き添いの長男が乗り込むと、サイレンの音もけたたましく、車はスピードをあげ真暗な街の中を突走った。 手足の麻痺が少しずつとれ、発作がおさまりかけると、急に体中の力が抜け、気が速くなりだした。一体これはどうしたことか。午後からひどい頭痛が始まり、吐いたり下したりしていた。そのたびに頭をそっと抱えるようにして、何度もトイレに通った。 トイレで立ち上ろうとしたとき、急に呼吸が慌ただしくなり、私はハアハアと大きく息を吐いた。心臓が早鐘を打つ。洗面所の鏡に映った顔は蒼白で、冷や汗が流れ、手足の先端から痺れが体の中心に向って迫ってくる。この麻痺が心臓までくると死ぬんじゃあないだろうか、これはただ事ではない、と這うようにしてなんとか茶の間にたどりつき、「救急車、救急車」と呼んで床の上に倒れたのだった。診察室に運ばれたときは、すでに発作は治り、顔色も少し赤味を帯びていたらしい。 当直医は不機嫌な顔で看護婦に注射を指示すると、 「今夜はもう帰っていいです」 と無愛想に言った。 長男は父が来るまで待たせてほしいと話している。私は鎮静剤の注射が効いてきたらしく、ふんわりと眠くなってきた。そこへ夫が大きな風呂敷包みを抱えて入ってきた。医師からのヒステリー発作だとの説明に三人とも納得がいかず、 「はあ」 と顔を見合せているばかり…。 最近、過換気症候群という病気が増えていると聞く。ストレス病の一種で、呼吸器系の心身症らしい。救急車の出動も多いそうである。何かのきっかけで呼吸が早くなり、体内に酸素が増え炭酸ガスが減ると血液の流れが悪くなり、手足の痺れが起こるという。そう言えば前にアメリカ映画で見たことがあった。病気だけは流行の先端をいったらしい。 タクシーを呼んで今来た道を親子三人引返すと、真暗な闇の中に坦々と電灯の灯った我が家が、舞台装置のように浮き上って見えた。 留守番役の二男は、夜だというのにちゃんと制服に着がえ、電話のかかるのを待っていたという。てっきり、「お母さんは死んだ」と思ったそうだ。 私は苦笑しながら寝室の襖を開けた。寝床は綺麗に片附けられ、水を落したダンロップの水枕が柱にぶら下っていた。 (昭和六十三年八月/市民文芸) 探しものはなんですか さあ外出しようというとき、私は先ず第一に財布さがしから始める。買物籠に放りこんだままになっていたり、テーブルの上に載っていたり、すぐ見つかることもあるが、どうしても見つからず途方にくれることさえある。 寒い季節には欠かせない手ぶくろも、これで又ひと騒動してバスに乗り遅れたりする。 手ぶくろでは忘れられない思い出がある。盛岡で暮らしていたころのこと、大切にしていた外国みやげの革手ぶくろを失くした。黒いバックスキンの洒落た手ぶくろで私は大変気に入っていた。 一月下旬、この日は盛岡でも珍しいほどの大雪が降り、仙台では停電騒ぎがあったほどだ。年末に注文していたやまどりの剥製が出来上がったと電話があり、雪の中を取りに行くことになった。横浜で修業したという職人さんの手で、やまどりは今にも飛び立たんばかりのいい姿に出来上っていた。幅三〇センチ、高さ一メートルの大きな剥製をかかえて、やっと我が家にたどり着いてから、手ぶくろの片方がないことに気がついた。 テーブルの上にバッグと一緒に左手の手ぶくろはあるが右手の方がない。ポケットの中やバッグの中、リビング中を採し廻り、雪の中を玄関から門まで探したが出てこない。 たしか、しつかりと家まで手ぶくろははめて帰ったつもりであったが…。アート剥製社にも電話で問い合せ、念のため帰りに乗ったタクシーにも尋ねてみたが無かった。 私はがっかりして残った片方をどうしたものかとしばらく眺めていたが、気になって仕方がない。思い切って処分したほうがすっきりするような気がして、翌日のゴミ出し日にエイッと捨ててしまった。 二日ほどたち、夫の靴下の整理をしていたら失くしたはずの右手の手ぶくろがポロリと出てきた。あんなに必死に探していた右手の手ぶくろが。私は、小さくアッ! と叫んで ベタンとタンスの前に座りこんだ。「あとの祭り」とはこんな場合をいうのだろう。 北国では冬の間、洗濯物は家の中に干す。私も靴下などの小物はストーブの側に広げて乾かしていた。きっと帰宅して無意識に濡れた手ぶくろを靴下の側に干したに違いない。出来上がった剥製に気をとられていたんだろう。 いま思い出しても悔しい。 探し物では夫も負けてはいない。老眼鏡とライターでいつも悩まされている。ひとり言を言いながら、ほうぼう探している。どうしても見つからないと私に声をかける。家になかったときは、ゴルフ場とか○○さんの車の中とかヒントをだすと適中して無事に戻ってくるから面白い。 私がこんなにして採し物をするようになったのは、たしか五十歳をすぎてからだったような気がする。それまで傘でも財布でも手ぶくろでも失くしたり探したりすることはなかった。探しものの話を若い人にすると、不思議そうな顔をしたり笑われたりするが、私はひそかに心の中で呟いている。 いずれあなたも……。 (平成二年二月) バレンタインデー騒動 夕食の仕度を終えてからケチャップが切れているのに気がついた。 お使いを頼みたい二男は駅前の本屋にでかけていたので、珍しく早く帰宅していた夫に留守を頼み、近くのスーパーへ急いだ。そのほんの一寸した間に事は起った。 買物から帰ると 「いま、可愛らしい女の子が敏治にこれを持って来たよ」 夫はリボンのかかった小さな包みをさし出した。 「へえ−、敏ちゃんに…」 そうだ、今日はバレンタインデーだ。 高校二年になって初めて届いたチョコレートだ。誰からだろうと母親の私の方が胸をときめかしているのに、夫は肝心の彼女の名前は聞いたが忘れたという。まあ! 何ということだろう。 話のなりゆきはこうだ。 テレビを見ていたら玄関で声がして、制服を着た女の子が立っている。小さな包みを受けとっていると、丁度奥で電話のベルが鳴りだした。女の子はそのまま帰ってしまい、受話器を置いて、さて誰だったか思い出そうとしても出てこない。ころりと忘れてしまったというのだ。 色白、面長で、はっきりしたお嬢さんだったと聞いて、私は思い浮かぶ名前を矢継ぎ早に言ってみたが、どれも違うという。クラスの名簿を持ち出してアイウエオ順に読み上げたがその中にもない。こんどは写真だ。四十人近い生徒が並んだ写真を見せると、 「こんな小さな顔で分るか」 と夫は言った。私は急いで虫めがねを手渡し、一人ずつ念入りに見てもらう。息子が帰ってくる前になんとか思い出してもらいたいと気を揉んでいるのに、どうしても分らないようだ。 夫も留守中なにげなく受取った包みが、こんな大騒動をひき起こすなんて、思いがけなかったことだろう。今日がバレンタインデーと知っていたらもう少し気をつけていたかも知れないが、そこは大正生まれの悲しさ、そんな洒落た経験は一度もなかったのである。 そうこうするうちに二男が帰ってきた。ことの次第を聞くと我が息子はただ一言、 「ふ−ん」 夫は申し訳なさそうに、 「なかなか美人だったぞ。だけど気の毒したな」 と大弱り。 明日、学校でお礼を言わないことには彼女はがっかりするだろうし、息子もなんとなく落ち着かないことだろうと私一人気を揉んでいるのだがどうしようもない。 夫は最初のうちすまなかったと思っていたようだが、たまに早く帰ってこんな目にあったものだから、だんだん腹が立ってきたのだろう。突然、 「敏治もこんな大事な日に本屋なんかに出かけないで、ちゃんと家に居ればいいものを」 と怒ったように言った。 私と息子は顔を見合せて大声で笑った。 (平成五年三月) |