| ヨーロッパ二人三脚 − 夫と私 |
掌の電報 「お父さん、分かる」 夫は私の声にうっすらと目を開けた。そして 「よく頑張ったわね。痛む」という私の問いに、ピクツと体を動かして顔をしかめた。鼻には二本の管が差し込まれているので声が出ない。左腕は板に固定されて動かせないようにしてある。胸から下はタオルケットが掛けられているので見えないが、首の付け根は厚いガーゼで覆われていた。 右手を宙に浮かせ、なにか言いたげであった。すぐ看護さんが鉛筆と紙を差しだした。紙は紙バサミに止められ書きやすくしてあった。夫は、やっと鉛筆を握るとたどたどしい文字で書いた。 トビアガルクライ、イタイ 私はうなずき、震える手でそっと夫の髪を撫でた。また体がピクツと動いた。やっと、 カンケツテキ と書くと、ポトリと鉛筆を落してしまった。私はオロオロして看護婦さんを見た。「とても痛がられて、人の三倍ぐらい鎮痛剤を使いました。あまり使うと腸の働きが悪くなってよくないのです」 昨日、夫は食道再建術という大手術をして、九大附属病院のICU(集中治療部)に入った。手術当日は患者の安静のため、テレビ面会という方法で手術直後の夫の様子を見ることができた。酸素マスクをして静かに眠っているのを一方的に見るだけであったが、今日からはICUに入って十分間の面会ができることになっている。 右手が宙に浮いた。 ハラガハル イタミドメタノム 声の出せない夫は必死で私の目を見て訴える。思わず私は麻酔医にかけより、「とても痛がっていますのでお願いします」と頭を下げた。 二日目。 夫はげっそりとやつれ、前日とすっかり人相が変っていた。一晩でこんなに変るものだろうか 「どう、少しは楽になった」 看護婦さんが、奥さんの掌に書いてみるといいでしょうとアドバイスしたので、私は右の掌を夫の前に広げて差し出した。これがなかなか分りにくい。看農婦さんと二人で声を出して読んでみた。 キノウヨリイイ やっと了解。 「よかったね。あとひと頑張りよ」と言って夫の手に触れると氷のように冷たい。足はどうだろうか。足も冷たい。しばらく私の両手で暖めてみる。こんなに冷たくて大丈夫だろうか。こんどは、 カタガイタイ と書いた。私は暖かいタオルを借りて、ゆっくりとマッサージをした。気持よさそうにしている。無精ヒゲが伸び、白髪が一気に増えたようだ。十分の面会時間が終り、「また、明日来るから元気になっていてね」と言うと、私の手をとり、夫は目を閉じて アシタモ タノム と書いた。私は笑いながら「うん、いいよ」と言ったが、急にぐつとこみ上げるものがあり涙があふれた。 (平成元年九月) 季節の足音 時計が十一時を指した。午前中の回診や処置が終ったので夫はホッとした表情で、ベッドに横になったままイヤホーンをつけてテレビの画面に見入っている。ときどき喉をゼイゼイと鳴らして咳をする。 食道の手術をしてから三週間もたつというのに、夫はいまだに熱が上ったり下ったりして不安定な状態がつづいている。昨夜も熱がでて、ひっきりなしの咳に苦しんだが解熱剤を使ってからはぐっすりと眠った。一方付き添っていた私の方は夫の咳やうわ言のために殆んど眠れず、今日は朝から頭が痛い。 中央病棟、四階の病室から見える空はどんよりと灰色で、すぐ目の前にびっしりと重なりあっている古い木造の民家の屋根瓦や樹々の緑が沈んで見える。屋根瓦を隔てて真正面に千鳥橋病院、その裏側に高層マンションが三棟、左手に都市高速が走っているが、グリーンに塗られた橋桁が空中に曲線を描いている。家の間の細い路地を郵便局の赤いバイクが通り抜けていった。 私はこの病室暮らしでもう三週間も家に帰っていない。その間に暦は八月から九月に変った。今年は三年ぶりに暑い夏が復活し、八月まで極端に雨が少なく、水不足の心配も話題になった。九月に入るとすぐ雨がつづき十月中旬なみの気温の日もあった。病院も冷房を切り、見舞客も合服を着て訪れるなど、夏服のままの私を慌てさせた。 売店にはイチジクやプルーンなど季節の果物が並び、花屋にはコスモスも目につくようになった。病院にこもりきりでも少しずつ季節の足音は聞こえてくる。 夏のはじめ、我が家のイチジクに沢山の青い実がつき楽しみにしていたが、今年はひとつも食べることなく終りそうだ。きっと蟻や蜂が沢山群っていることだろう。父はどうしているだろうか。老人性のしっしんに悩まされ一日中クーラーの部屋で暮らしていたが、そろそろ疲れがでてはいないだろうか。 「もう、生きるのは飽きちゃった」と冗談とも本気ともつかぬことを言うようになっている。夏休み返上で世話をしてくれていた姪も、そろそろ大学の新学期がはじまる。 いつの間にか夫は軽い寝息をたて始めた。寝顔が姑に似てきたなと思う。大手術に耐えたのだから、もう一度元気になってほしい。ベッドの上で六十三歳の誕生日を迎え「あと十年生きたい」としみじみ言ったが、とっさに私は言葉がでなかった。慌てて「大丈夫よ」と言ったものの、見通しが立っていないので、夫の顔が正視できなかった。いったいこれからどうなるのだろう。 「もう、生きるのは飽きちゃった」と言う九十七歳の父と「あと十年生きたい」と言う夫。二人の肺腑の言に私はただ切ない吐息をつくしかないのだ。 いつの間にか雨になった。窓辺に立って下を眺めるとアスファルトの舗道が黒く光って見えた。 (平成元年十月) おせちの出前 平成二年の元日は、我が家にとって特別な思いのこもるお正月であった。 前の年の入月、夫は食道に異常を感じ、即手術ということになった。手術は成功したものの予後が思わしくなく、食事がスムーズに通らない。点滴と経腸栄養剤の注入だけですでに四ヵ月も入院生活を送っていた。 十二月の中ごろになって軟かい食べ物がなんとか摂れるようになり、お正月には退院できそうだと明るい見通しがたっていたのに、年末になってまた食べ物の通りが悪くなり、水も飲めない状態でふり出しに戻ってしまった。 私はがっかりして気が滅入り、お正月の用意などとてもする気になれないでいた。足利と広島から久し振りに息子たちも帰省する。家には高齢の父と女子大生の姪もいる。淋しいお正月にするわけにもいくまい。私は気をとり直して、いつものように寿司格におせちを注文し、玄関に注連飾をつけ床の間に鏡餅を飾った元日には五人でお屠蘇を頂き、昼すぎに息子や姪と連れだって病院へ出かけた。私は夫が食べられないのを承知で、一人分のおせちを小さな春慶塗の重箱につめて持参した。このままの状態がつづけば、もしかすると最後のお正月になるかも知れない そんなせっぱつまった思いもあった。 K大学附属病院の構内には人影もなく、冬枯れの芝生の中に創立者大森博士の銅像が寒そうに立っていた。 元日の病棟は殆んどの患者が外泊許可をとっており、外科や婦人科に僅かに患者が残っているだけで、ひっそりと静まり返っていた。 個室のドアを開けると、ベッドの上に夫は淋しそうな姿でポツンと座っていた。が、すぐに病室は息子や姪の若者たちの笑顔で明るい雰囲気に包まれた。息子たちはベッドの側に椅子をよせ、何やら話をはじめている。 私は頃合いを見て、 「お父さん、おせちを少し持ってきました」とさりげなく取りだした。 食べられない人におせちを持って行くという非常識は十分承知だ。夫はどんな反応をするだろうか。放り投げられても仕方がない。 見せるだけのおせち、見るだけのおせち。それは相撲の仕切のようにハッと呼吸を合わせる一瞬であった。 夫は黙って重箱の蓋をとった。黒豆、蒲鉾、お煮しめと彩りよく並んだおせちを、しばらくじっと眺めていたが 「例年どおりだな」 と顔を和ませた。私はホッとした。緊張がとけ、肩の力が抜けた。 息子たちがスキーの話をはじめると「うん、そうか」と夫は機嫌よく相槌を打っている。 病室いっぱいに暖かな陽がさし込み、窓辺のシャコバサボテンが燃えるような赤い花をつけていた。姪はカメラを取り出すと、 「伯母さん、ベッドの側に行って。ハイ、チーズ」 平成二年元旦の家族の写真。この一枚は家族の暮らしが愛情とふだんの努力によって支えられていることを教えてくれる。 私はこの写真を大きく引き伸し、リビングのテレビの上に飾った。 (平成三年四月) 春の風 我が家は那珂川の畔にあるので、春になると気圧の影響で強い風が吹く。 結婚したころは、まだ広々とした田圃が多かった。家の数も少なく、風が吹くとまともに当たるので、恐しくて眠れないこともあった。今ではすっかり慣れたけれど、昨年の夏から我が家に寄宿している大学生の姪は、ギシ、ギシと家が揺れ、ゴオーッと吹き荒れる強烈な風の恐しさに、二階から枕を抱えて降りてくる。夜半に吹く風は不安で恐しい。 昨年の夏、夫は大病をして九州大学附属病院に入院した。手術の予後が思わしくなく七ヵ月も入院生活を送った。退院したものの、食事がうまくとれず痩せていくので、食餌療法とリハビリを兼ね、個人病院に再入院し、社会復帰の準備をしていた。 午後には散歩という日課があり、自由に外出してよかった。私は毎日、夫に付き添って病院から近くの筥崎宮まで四十分近く散歩をした。病院を出ると、すぐ前が大学通りと呼ばれている道路で、道幅が狭く交通量が激しい。用心しないと車に巻き込まれそうだ。折しも春先でしばしば突風が吹くので、十キロも痩せ、心もとない足どりで歩く夫はフラフラと何度も風に吹き飛ばされそうになる。新しく買ったトレーニングウェアに白い靴、必死で歩く夫の後につづいて私は黙って歩いた。前を行く夫は肉の落ちた肩のあたりが淋しく頼りなげだ。 元気なころは身長一七〇センチ、体重七五キロという恰幅のよさで、頼もしいかぎりであった。私は記憶の中にある夫の背を思い出しながら、一歩一歩踏みしめるように歩いた。 (平成二年三月) ベルの音 岐阜で暮らしているころ、赤十字の病人介護の講習会に通ったことがあった。いろいろな介護のやり方を習ったが、そのとき病人の枕もとに「チリン、チリン」と鳴らすベルを置いておくと便利だと教わった。 折しもクリスマスで、頂いたワインに美しい陶器のベルがセットされていた。ピンクのベルに赤いリボンが結んである。いつかこれが役にたつことがあるかも知れないと大切にしまいこんで、十年の月日が流れた。 平成元年の九月、夫は九州大学附属病院で食道の手術をした。手術後、声の出せない状態がつづいたとき、私はこのベルを思い出し、家から持ってきて枕頭台の上に置き「用事があったら、これを鳴らしてね」と夫に言った。 その後、思わしくない状態がつづき、このベルは夜となく昼となく鳴りつづけた。私は睡眠不足でふらふらしながら看病をつづけた。 昼間、人の出人りの激しい時のベルの音はさほどでもないが、夜、しんと静まり返った病室に響くベルの音は無気味で何とも言えない感じであった。 九月いっぱい私は自宅にも帰れず、夏物の洋服で過ごしていたが、見舞客のスーツ姿や贈物の花束にまじる竜胆に秋の気配を感じた。看病に必死でとりくんでいるうちに、季節が足早に通りすぎようとしていた。 病室の窓から眺める樹木が紅葉し、葉が落ち、雪が舞いはじめた。珍しく雪の多い年で白く輝く民家の屋根の雪を見ながら退院の日を待った。 七ヵ月の闘病生活を終え、翌年の三月、夫は無事に退院し、やっとベルの音からも解放された。ところが自宅に戻ってからも私は微かに鳴るベルの音にハッと目覚めるようになった。もちろん空耳である。それだけにいつになったら鳴りやむのか、と私はつくづくベルをうらめしく思った。 (平成四年四月) 我楽多 二月に胃の手術をし、冬の間私はベッドに張りつくようにして暮らしていた。 今年は例年より十日早く春一番が吹いた。翌日、テレビは黄砂現象のニュースを報じた。病院にこもっている間に大地は少しずつ春のきざしを見せはじめている。 九州大学附属病院第二外科の二人部屋ベッドの枕許には作りつけの棚があり、サイドに枕頭台が備えてあった。入院時に持ってきた下着や寝巻、洗面道具に湯飲み茶碗などはこの備えつけの家具の中にきれいに納った。 病人になるとたったこれだけで暮らしていけるのだ。物足りないような、何だか心細いような妙な気分である。 手術後、三分の一になった私の胃は、食事をとると機嫌が悪くなりひどいダンピングをおこした。動悸、発汗、腹痛に悩まされ食事がとれず辛い毎日を過した。 病気をすると欲がなくなるのか、何も欲しいものがない。「人間は結局死ぬときは何も必要ないんだ」と実感したのだ。五十日の入院生活を終え自宅で療養をはじめたが、使い慣れた古い家具や道具に囲まれての日常のくらしは、すべてが暖かく感じられ心の安らぐものがあった。だが病院でのシンプルな暮らしに較べて何と物の多い営みであることか。 平凡な庶民の生活で、なにひとつ贅沢なもののない我が家であるが、使いこんだ古い鏡台、なじんだ机、少しずつ揃えたお茶道具、どれも自分の歴史がしみ込んだ大切な品物に思える。 もし、私がいなくなったらこれらはどうなるのだろうか。私にとって大切なものでも他人から見ればただの我楽多にすぎないだろう。 そんなとき、テレビでチャップリンの遺品がオークションにかけられているのを見た。パジャマやタキシード、ラケットに左ききのバイオリン (彼は左ききであった)からリムジンまで、次々と披露されると忽ち買手がついていく。チャップリンの遺品ともなると我楽多なんていうものはなにひとつないのだ。すべてがその場で買った人の宝物に変身してしまうからすごい。 それに較べ、私の場合どうなるだろう。古道具は燃えないゴミの日に運び出され、衣類はチリ紙交換でトイレットペーパーになるのが目に見えている。どう見ても我楽多だから致し方あるまい。 それならいっそのこと、これから自分で、いつの間にかあれやこれやと贅肉のようにためこんだ家財類を少し整理しておこう。そして静かな空間を作りゆったりと暮らし、そのときを迎えよう。ひょっとすると物への執着心も、胃と同じくらい小さくなってしまったのかもしれない。 (平成五年六月) 若葉目に染む 検査室が急に明るくなったように感じた。不快な胃カメラがスルスルと抜きだされた瞬間、緊張が緩み体中の力が抜けた。 「異常ありませんよ。傷口もきれいについています」 小柄な女医さんは手際よく胃カメラの始末をしながら笑顔で言った。 胃の手術をしてから一年目の検査が五月に入って始まった。 九州大学附属病院の第二外科から放射線科に廻り、超音波、CT、透視につづいて一番苦痛な胃カメラの検査が終った。 「日にち薬」とはよく言ったものである。手術後のダンピングという後遺症と抗ガン剤の副作用に悩まされた一年であったが、最近なんとかダンピングにも少しは慣れ、抗ガン剤の服用が終ってからは大変楽になった。 だが闘病生活というものが手術の後から始まるということを、このとき初めて体験した。 検診で見つかった胃ガン。「早期だから九九パーセント治りますよ」 と言われて受けた手術とはいえ、この一年はやはり辛い日々であった。 会計をすませ出入口に向った。自動ドアが開くと前庭の明るい芝生の緑が視野いっぱいに広がった。その中に赤、白、ピンクのつつじの花が鮮やかな色を見せている。 左手の歯学部の建物は萌え出たばかりのクスの若葉ですっかり覆われている。気がつくと正門まではクスの並木路。見上げると若葉の間から小さな黄白色の花がのぞいていた。来るときには気がつかなかった初夏の風景の中を、私は正門に向ってゆっくりと歩いた。 (平成六年五月) 中禅寺湖にて 部屋の明かりを消すと、カーテン越しにまあるい月が見えた。 起き上り、窓辺に立って見下すと、中禅寺湖は暗い閣の中にすっぼりと包まれていた。 昼間、美しい紅葉を見せていた周囲の木立はいま、こんもりとしたシルエットを描き、更に深い閣の色で静まり返っていた。 都会育ちの私には、夜がこんなに暗いとは思ってもみないことであった。 福岡空港を飛び立ち、夫と二人、栃木路の旅にでた。鬼怒川温泉、東照宮、中禅寺湖を廻る二泊三日の旅である。 いろは坂では、十月の観光シーズンというのに渋滞にも巻き込まれず、「い」から「ね」までの二十カーブをすいすい通り抜け、明知平に着いたら正面にきれいな虹がかかっていた。 観瀑台で正面間近に水しぶきをあびながら見た華厳の滝の迫力、紅葉樹林に彩られた竜頭の滝の清れいさ、中禅寺の木立観音を拝観してから、ホテル橋本家に宿をとった。 桐生出身であった父は、たびたび私たち家族に男体山の鬼の話、豪華な東照宮、華厳の滝のエピソードなど話してくれた。 私が薬専の二年のとき、父は母と小学生の妹を連れてこのコースを旅した。母はまだ四十代の若さであった。いろいろと苦労の多い人だったが、あの頃が一番幸せではなかったろうか。あの旅でどんなことを考えただろうか。母が亡くなりもう三十年になる。 こうして月を眺めていると無性に母が恋しくなった。まあるい月はじっと動かないが、空いっぱいに散らばっている星は、けものの眼のような光を放っていた。 (平成六年九月) 梅の咲くころ 平成五年二月に胃がんの手術を受けてから、毎年一回定期的に検診を受けている。昨年、慶応大学の近藤誠講師の『患者よ、がんと闘うな』 (文贅春秋)という本が出版され反響をよんだ。 がん検診は無駄、手術は無用、抗がん剤治療の九〇パーセントは無意味。手術を受けた患者が闘っているのはがんではなく、手術による合併症、後遺痘、抗がん剤の副作用という可能性はないでしょうか、がんの本質は老化で自然現象だから、がん治療に多くを望まず最低限症状をとってもらうことを期待する方が、無理な治療をするより長生きできるし楽に死ねるという内容であった。 検診でがんが見つかり手術を受けた私にとっては、常識をひっくり返されるような話に驚きの連続であった。唯一、抗がん剤の話は納得できるものがあった。アメリカではすでに使用されていない二種類の抗がん剤を一年間飲んで、その強い副作用に根をあげた経験があるからだ。 専門的知識に乏しい患者としては種々の情報源を活用して、セカンド・オピニオンを開き自分で治療法を選ぶのが一番良い方法のようだが果たしてどこまでできるだろうか。 今年もK大附属病院に検診を受けに行った。一時間待ってやっとエコーの検査が始まった。 「大きく呼吸をして。ハイ、止めて」 私は特殊検査室の薄汚れた天井を見つめながら先生の指示通り呼吸する。昨年は肝臓に石灰化が見つかった。老化現象と笑いごとですみ、問題にならなかったが今年はどうだろうか。ふと不安がよぎる。 エコーをすませ、すぐ胃透視に廻った。廊下の長椅子に五、六人順番を待つ人が座っていた。淡いグリーンの検査服に着替えると、看護婦が左腕に注射を打った。この注射はとても痛い。注射のあとをしっかりと揉んで痛みをこらえた。名前を呼ばれて造影室に入る。 大きな器械の間に入り込むと、バリウムの入った紙コップが渡された。左手に持ったバリウムを一口飲んでは左をむき、右をむき、飲むたびに角度を変えて、撮影が終るころには口の周囲がバリウムでゴワゴワである。 朝食を食べないで自宅を出たのが入時、検査が終了し会計をすませたのが一時半。ホッとして外に出ると風が冷たい。 病院の記念庭園の広い芝生は枯れ葉色で、鈍色の二月の空から雪が舞いはじめた。この間まで冬木立だった梅林の紅梅はアラレを散らしたように赤い蕾をふくらませ、やっと開いた花の上に雪が落ちていた。 「梅の花に雪のふりかかりたる」という『枕草子』の一節を思い出しながら、しばらく立ち止まって眺めていた。この梅が五分咲きになるころ検査の結果がでる。 こうして毎年四日がかりで病院に検査にでかけるのは、半分は自分のため、後の半分は病院へのデータ提供のためというのが私の本音でもある。少しは医療の発展に貢献できるだろう。 『患者よ、がんと闘うな』の著者はがん検診は無駄と言っているが、私は毎年受けようと思っている。計画だてて余命を生き、尊厳ある死を選びたいから受験生と同じように、二月は私にとって一つの関門をくぐる季節でもある。 (平成十年三月) ヨーロッパ二人三脚 旅立ち 昨夜の雨も上がり、朝からカラリと晴れて青空が覗いている。 これから十三日間のヨーロッパ旅行に出るというのに、若いころのようなワクワクした気持の昂りはなく日常生活の延長という意識しかない。「どうか、この旅が無事であります ように」という思いだけが強かった。「熟年の旅」というのはこんなものだろうか。 自宅から乗ったタクシーが福岡空港に近づくと、アジサイの花が雨に洗われて鮮やかな色を見せていた。 夫と私は午前八時三十分に福岡空港を発ち、一時間後に関西国際空港に着いた。 二個の重いスーツケースをふらふらしながらカートに載せ、エレベーターで国際線出発ロビーへ急いだ。集合場所のターミナルビル四階Eカウンター前に着いたときには、ツアーの人たちはほとんど揃っていた。 今回の「熱年の旅」のメンバーは、停年退職組らしい十組の夫婦、親子連れ一組、単身二組の総勢二十四名。どうやら私たちが一番年長者らしい。それぞれが申し合わせたように男性はブレザーに替ズボン、女性はツーピース姿である。夫はゴルフ以外にはブレザーを着ない人で、今日もスーツ姿だ。私はオレンジ色のパンツスーツに墨色のツバ広の帽子を被っていた。家を出るとき、この装いは一寸日立ち過ぎるかなと考えたが、迷子になったとき直ぐ見付けてもらえるように、またツアーの人たちに自分を覚えてもらいたいという気持もあった。 添乗員の大東さんは小柄でキビキビした女性で親しみ易い感じがする。この人となら十三日間の旅も安心だ。 ウイングシャトルに乗り込み四十六番塔乗口へ。関西国際空港は初めてだったが、とにかく広い。ここが世界初の海上空港で埋立て地だとはとても思えない。 「二人でヨーロッパヘ行こう」と計画したのは九年も前のことだ。ところが夫の突然の発病でこの計画はいっペんに吹き飛んでしまっていた。 それは平成元年の夏のこと。夫は食道の摘出手術を受けたが予後が思わしくなく、九州大学附属病院に七カ月間も入院をした。 退院後も食事が十分摂れない上に、手術の後遺症で左の声帯が麻痺し、声が思うように出なくなった。少しずつ言葉が開きとれるようになるまで、二年以上の月日を必要とした。 夫がなんとか小康状態を得てほっとした四年後、こんどは私が定期検診にひっかかった。その結果、早期胃ガンと診断された。 手術後、三分の一になった私の胃はたびたび機嫌を悪くして、ダンピング症状を起こした。そのたびに脂汗を流して苦しみ、発作が治まるのを待たなければならない。夫婦揃ってこんな状況で、ヨーロッパ旅行は考えることもできなかった。 ところが最近ようやく二人の健康状態が折りあうようになった。どうやら上手に病気を飼いならせるようになってきたようだ。 そんな或る日、夫が、「今がチャンスだ。思いきってヨーロッパに行ってみようじゃあないか」そう提案した。 夫は在職中、視察団の一月としてヨーロッパ七ケ国を廻っている。定年後は夫婦でプライベートな旅をしたいと夢を育んでいた。 夫の言葉に私は一瞬ためらいを覚えた。が、思い切って一歩踏みだすつもりで賛成をした。前に進まなければ生きている意味がないように思えたからだ。 旅行の決心をすると、私の身の廻りが急にあわただしくなった。夫と二人で一人前の体力しかないので、ゆったりした「熱年コース」を選び、飛行機の座席はビジネスクラスを選んだ。 JAL四二九便は、ミラノ経由でローマまで約十六時間のフライトだ。くつろぎの空間を重視したビジネスクラスは座席も広く、リクライニングの角度も深いので楽だ。以前アメリカ旅行をしたときの窮屈な座席を思い出し、「ビジネスにしてよかったわね」と私が言うと、夫は笑って領いた。 推理小説の好きな彼は、座席に着くとすぐ文庫本を広げていた。私はミラノへの機上で、持っていった妹尾河童著『少年H』を読む。 著者と私は同じ年代を生きてきた。偶然にも二人は阪神地方に住み、十五歳のとき太平洋戦争を体験している。連日の激しい空襲の中、私は軍需工場に動員され、飛行機の部品を作っていた。本を読んでいると自分の軍国少女時代を思いだし、日の丸のハチマキやモンペ姿が浮び上ってきた。 同じころ夫は旧制高校の理系の学生で、そのため召集を免除されて長崎の川棚という所で重労働を課されていた。八月九日に投下された原子爆弾の強い閃光を目撃し、「日本は敗けたな」と感じたという。 あれから五十年たった。 爆弾や焼夷弾の下をくぐり抜け、なんとか病気を乗り越えて、二人とも生きのびたお陰でヨーロッパ旅行ができるのだ。感無量のものがある。 「見てごらん、アルプスだ」 夫に促されて窓の外を見ると、眼下には雲海の聞から雪をかぶったアルプスの峰々が、鋭い稜線を見せていた。いま私たちはアルプスの上を飛んでいる。 喜びが胸いっぱいに広がった。 (平成九年六月十三日) ボンベイの廃墟 私たちの乗ったバスは六車線の広々とした太陽道路に入った。この道路は南に向って走っているので太陽道路と呼ばれている。 道路の両側には赤いポピーや夾竹桃、黄色のエニシデの花が彩りを見せ、どこまでもどこまでも続いていた。高層のジプシーアパートが遠くに白く見えている。 「この道路は、あまり金がかかっていないようだな」と夫が言った。土木技師で道路や橋が専門の彼は、私とは視点が違うので面白い。 普通、道路には側溝をつけるが太陽道路にはない。その分コストが安くあがるそうだ。 サッカーの応援に行く若者たちが大きな赤旗を立てたバイクに乗って、私たちのバスの横をすっとんで行く。 バスはやがてナポリの郊外に入った。するとイタリア松の並木道アッピア街道が見えた。日本の松と違ってパラソルのようなイタリアの松の並ぶ様はユーモラスな風景だ。 芸術家にインスピレーションを与えるこの松は、絵画や音楽にも表現されているという。「レスピーギ作曲の 『アッピア街道の松』を開いたことがあるよ」 夫が言った。 急に視界が開け、碧い海が広がった。美しいナポリ湾だ。なんと明るい海の色だろう。 「『ナポリを見て死ね』って言うわね」 「或る学者は、ナポリ湾もヴェスヴィオ山系の一火口に海水を湛えたものにすぎないと物騒なことを言っているよ」 運河をつくるとき発見されたボンベイは、そのヴェスヴィオ火山の噴火により火山灰に埋った古代都市である。 突然の火山の大噴火とともに降ってきた熔岩や火山灰。逃げまどう人々。阿鼻叫喚の焦熱地獄であったろう。 私はテレビで見た普賢岳の火山活動を思い浮べた。赤々と燃えて流れでる火砕流。降りそそぐ火山灰。だがボンベイは普賢岳とはスケールが違っている。 ポータマリーナという門から入って、ゆるやかな坂道をたどり、ジュピターやアポロ神殿のある広場をめぐり町を一巡する。 屋根はなく、柱と壁だけになった建物は大理石やタフ・ストーンでできていて、床はモザイク。壁は神話にちなんだ壁画が描かれていた。 六月というのになんと暑いのだろう。日本人観光客は雨傘を広げて日陰をつくったり、扇子で風を送ったりしている。夫の額に汗が吹きだし、シャツの背中にも汗がにじんで濡れていた。 日本の弥生時代にあたるころ、ここでは現代社会とさほど変らない生活をしていたとはまさに驚きである。その様子を物語る邸宅や公共建築物、道路などがまるで瞬間冷凍にでもされたような形で残っている。 二十年前、ここを訪れた夫はこの時代に水道の鉛管があったのが強く印象に残ったと話していた。私も同じ思いだ。 ベッティの家の婦人部屋から賑やかな笑い声が聞えてきた。声のする方を見ると男性のシンボルをエロチックに描いた絵の前に立って、外人の女の子たちが交替で記念写真を撮っている。日本人なら決してしない光景だと思った。 ボンベイは暖かい国で暮らしが楽だったのだろうか。全体的に享楽的な生活の匂いを感じたが、犠牲になった人びとや犬の塑像はやはり心の痛む思いがした。 小学生のころ、地理の時間にボンペイの話を聞いていた。 「イタリアも日本と同じように地震の多い国です」 と先生の言った言葉が耳に残っている。 私たちも縦横に活断層の走る日本に住み、普賢岳や阪神大震炎などの災害を身近で体験している。 「大地震は何百年に一度あるかないかだ。一度あったら却って安心」 そう言う人もいるが、ボンベイでは大噴火の十六年前に激震があり、多数の建物が倒壊していた。 地盤が動くなんて、こんな恐しいことはあってほしくない。バスに戻ってから、 「日本も地震国なんだから、いつ大災害に見舞れるかも知れないわね」 私が言うと「そんな心配してどうするんだ。そのときはそのときたい」 夫の博多弁が返ってきた。 (平成九年六月十五日) サイカチ ローマのホテルを後にして、レオナルド・デピンチ空港に向かうバスの中で夫が、「ローマは随分観光ズレしたようだ」 と言った。 ホテルはAグレードだったが陰気な感じだ。エレベーターの具合も悪かったし、部屋のセイフティボックスも故障したまま、三日間修理にも来なかった。「食事より宿」という主義の夫は旅のはじまりから気分を損ねた。ホテルが意にそまないと旅の楽しみも半減してしまう。 ローマからジュネーブまで一時間半のフライトでコワントラン空港に着いた。現地ガイドはこの土地に二十五年も住んでいるJ・Jサト子さん。肝っ玉母さんというような感じの日本女性だった。 スイスと聞けば、私はアルプス、精密機械、永世中立国というくらいの知識しかなかった。 だがスイスでは、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語と四方国の言葉が使われ、地方ごとに言語圏の文化が違い、ミニヨーロッパといわれていると開き驚いてしまった。 ジュネーブはフランス文化のかおるフランス語圏の町である。 旧市街のサンピエール寺院、宗教改革記念碑を見て、ヌーブ広場に入ると紅紫色のまるでシソの葉のような紅スモモの木や、丸い大きな実をつけたプラタナスが、のびのびと枝を広げこんもりと緑の陰を作っていた。 私は大きな樹が好きだ。こんな樹々に囲まれると気持が伸びやかになり、呼吸が楽になるようだ。 「この樹なにか知っていますか」 ガイドの指さす方を見ると、見覚えのある樹が目に入った。 「サイカチでしょう」 と言ったのは私だけ。 「どうして知っているんだ」 夫が怪訝な顔をして開いた。 十五、六年前、盛岡で暮らしていたことがある。中津川のほとりに大きなサイカチの樹が数本あった。豆科のこの大きな樹は冬になるとすっかり葉を落し、やつれた三十センチほどの豆果が風に吹かれて、クルクルと揺れて微かな音をたてた。そのころ私たちはまだ五十代、今とちがって元気に忙しい毎日を送っていた。 夫は岩手県の土木部長として、四国四県ほどの広さをもつ岩手県内を精力的に駈け廻っていた。仕事は車での送り迎えがあったから中津川のサイカチに気付くゆとりなどなかったのだろう。 私は毎日この樹の側を通り、買物やコーラスの練習、土地の人との「お茶っ子飲み」と北国の暮らしを楽しんでいた。 険しいサイカチの樹をジュネーブで見るなんて本当に思ってもみなかった。 広々としたレマン湖に世界一という大噴水がある。高く高く水を噴きあげ迫力満点で気持がよかった。夫が、 「湖を周遊するのもいいだろうな」 と言ったがツアーの悲しさ、そんな自由行動は許されない。 バラの花が満開のイギリス公園で、バラ好きの夫はパチパチとシャッターを切った。 友人、知人の病気見舞には必ずバラの花を贈る人である。だが私はまだ夫から一度もバラの花を贈られたことはない。 千五古本の草花を使った花時計は、さすがその発祥の地だけあって見事なものだった。 このツアーで体力のない私たち夫婦は、いつもグループのしんがりをつとめていた。バスの乗り降りにも時間がかかるし、他の人たちのように早く歩けない。病気後二人とも十二、三キロ体重が減り、ヒョロ、ヒョロと頼りない歩き方である。盛岡時代を知っている 人たちはきっと目を見張るに違いない。 だが参加者は元気な人ばかりではない。 福井から参加の∪夫人は歩行が思うようにできないバーキンソン病で、ご主人が腕をとっての二人三脚だった。広島からのSさんは耳が不自由とかで奥様が側について、なにくれとなく世話をしていた。 年輪を重ねた夫婦の思いやりといたわりあいを身近にみて、心がふんわり暖まる感じがした。いつか読んだ文章の一節をふと思いだした。 「幸福は人生の前半にあるのではなく、後半にある」 珍しい外国の風景や遺跡だけでなく、このことはヨーロッパ旅行での思いがけない収穫であった。 夕食は楽しみにしていた「お肉のフォンデュ」だったが、油っこい上に肉も硬く、二人ともほとんど食べられなかった。 お皿のものをペロリとたいらげている若い人たちを感心して眺めていたが 「やはり旅行は、少々無理をしても若いときに行っとくもんだな」 そう言って夫が笑った。 (平成九年六月十六日) パトー・ムーシュ セーヌ河畔の遊覧船発着所には、色とりどりの船が肩を押しあうように並んでいた。 私たちの乗ったパトー・ムーシュは十九時三十分、発着所を静かに離れ、水量の豊かなセーヌ河を上流に向って進みはじめた。 生憎の小雨で、河風に吹かれる楽しみはなかったが、つぎつぎに潜り抜ける珍しい橋、対岸に見える美しい建物や家並などを眺めながらのクルーズは、胸のワクワクするような楽しさがあった。 フランス語と日本語で書かれた案内書には橋の名前、形、周囲の建物が詳しく書かれているが、字が小さく読みづらい。夫は老眼鏡を上げたり下げたりして 「こりやあ、さっぱりだな」 と閉口している。ルーペをホテルに置いてきたことが悔やまれた。 三時間半のクルーズは、上流のサンルイ島に架かるシェリー橋から折り返し、下流のミラボー橋まで二十二橋を巡って発着所に戻ってくることになっている。 船内は日本人ばかりで、ここがパリとは考えられないほどだった。大阪弁や名古屋弁が飛びかい賑やかなこと。海外に行く日本人が多いとは聞いていたがこんなに多いとは 私は自分が日本人であることを忘れ、圧倒された。 船内にシャンソンが流れ、東洋系らしい若いボーイが飲み物を運んできた。 夫はシャンパンをひとくち飲み、合格点をつけた。お酒の飲めない私はオレンジジュースにしたがこれも味がよかった。 夫はシャンパンを飲みながら窓側に座ってじっと外を眺めていたが 「水量も豊かだし、橋を一望するのに丁度よい河幅だ」 と土木技師らしいことを言った。 私は夫の表情に職業意識がよみがえってくるのを見て、結婚したころのことを思いだした。 長年土木部の道路畑を歩いてきた夫は、昭和三十年ごろ、福岡県を流れる筑後川に架かる原鶴橋の設計をしていた。橋は道路の一部である。原鶴橋は全長一八○メートルの日本で初めての鋼床盤箱桁橋であった。 夫はドイツの文献を読み、手廻しの大きな計算機をカチャカチャ動かしながら、毎晩遅くまで仕事をしていた。 私はそばでお茶を入れ、鉛筆を削り、ときには計算機を廻した。現在のように簡単で便利な計算機ではなく、手廻し式なので結構力がいった。 こうして二年がかりで出来上った原鶴橋は専門誌の表紙を飾った。新しい橋は洪水に流されることもなく、四十三年たった現在も健在である。 パトー・ムーシュは、ギリシャ神話のペガサスの像を装飾した豪華なアレタサンドル三世橋の下を抜け、素朴で重厚なロワイヤル橋、白い清楚なカルゼール橋を過ぎた。 パリシー人がシテ島に住みついたとき、一本の橋もなかったが、橋の数が増えるごとにパリは発展していった。 セーヌに架かる橋は洪水、火災、船の衝突で何度も架け直された。ナポレオンの亡骸も通ったコンコルド橋、マリー・アントワネットが処刑場に引かれて行くとき通って「嘆きの橋」と呼ばれたシャンジュ橋、シャンソンに歌われているミラボー橋。河や橋は長い年月の間にさまざまに変化したパリの世相を眺めてきたことだろう。 私は美しい彫刻のほどこされたアルマ橋やミラボー橋が好きだ。夫はなだらかな放物線を描くカルゼール橋が一番だという。 船内を流れていたシャンソンが「パリ祭」に変った。私はこの曲を聞くと切なくなる。 九年前に夫は食道の手術をしたが、手術の二カ月前に夫婦同伴のクラス会があった。夕食のあと、それぞれ自慢の歌を披露した。演歌がダメな夫はフランス語で「パリ祭」を歌い拍手喝采を受けた。とくに夫人たちの評判がよかった。 手術で左の声帯が麻痺して噴れ声になった夫は、手術以後は歌を歌わなくなった。コーラス部にいた人が……と思うと辛くなる。 人々はシャンパンやブドー酒の酔いが廻ったらしく、中央ホールでダンスが始った。心地よく酔い、みんな陽気になっていた。 夕闇がせまり、あたりが暗くなった。パトー・ムーシュから眺めるライトアップされたパリの夜景は趣があって美しい。キラキラ輝いて空に聳えたつエッフェル塔が現われたとき、船内からは拍手と歓声が湧き起った。 (平成九年六月二十日) ケンジントン・ガーデンズ ホテルのドアに″DON'T DISTURB″の札をかけ、今朝は充分睡眠をとった。 午前中は自由行動だったので、朝食後、近くのケンジントン・カーデンズに散歩に行こうと五階の部屋からロビーに降りると、体格のいい若者たちが大勢集っていた。ヨーロッパの人たちに混り、民族服を着た東南アジア系の女性の姿もあった。 彼らはウィンブルドン・テニスの選手たちで、フロントの天井からテニスのネットで作った歓迎の幕が下っていた。 季節は六月、世界各国から選手が集まる全英テニス大会。テニス好きのイギリス人が熱狂するシーズンだ。 「今年、この中から有名選手が出るかも知れないね」 と夫と話しあった。あとで知ったことだが日本の伊達公子選手もここに泊ったそうだ。 宿泊しているグロスターホテルから二分の所に、地下鉄のグロスターロード駅がある。 駅前はスーパー、クリーニング店、両替所など小さな店が軒を連ねている。庶民の生活の匂いが感じられ、人通りも多く賑やかだ。 私は青味がかったグレー地に花模様の合服の下に、黒のスパッツをはいて出たが丁度よい。六月下旬というのに十八度ぐらいの気温だ。 グロスターロードを北に十五分ほど行くと、ケンジントン通りに出た。信号を渡って公園の中に入ると、南北に幅の広いブロードウォーク、東にフラワーウォータがあった。 フラワーウォータは手入れの行き届いた遊歩道で、サルビア、バラ、シラン、ヒナゲシなど色とりどりの草花が咲き、のんびりと散歩するには、もってこいの道であった。 ブロードウォータは、ゆるやかな登り坂になっていた。ベントグリーンが青々として、その中に大きく枝を広げた菩提樹が、ひっそりとした木陰をつくり点在していた。 ツアーの人たちと別なので、夫と二人、ゆっくりマイペースの散歩は解放感があり、とてもリラックスできた。 大きく息を吸いこみながら、ゆっくり、ゆっくりと歩いた。 ところどころにベンチがあり、新開を読んでいる人、寝ころんでいる人、のんびりした光景であった。 やがて右手に八角形の池ラウンド・ポンド、左にケンジントン宮殿が見えた。 緑ゆたかな公園の中に赤レンガ造りの建物がこじんまりとして感じがいい。鉄製のフェンスの聞から見える庭には彩りよく草花が植えられ、優しい雰囲気を醸しだしていた。 離婚したデイアナ元妃は、ここに一人で住んでどんな思いで暮らしているのだろうか。庭に群生していた紫色のラベンダーのすっきりした爽やかさが彼女のイメージに重なった。 夫と池の前のベンチに腰をかけた。 「イタリア、スイス、フランスと廻ってきたけれど、私はイギリスに一番親しみを感じたわ。留学でもできる身分なら断然ここにしたい」 「僕は二十年前のロンドンと比べ活気があると思ったよ。あのころイギリスは斜陽の感じが強かったから」一九七〇年後半、イギリスは経済情勢に翳りがでて、当時の労働党政権は経済の建て直 しができないでいた。 「大英博物館は、もっとじっくり見たかったわ。ぜひ見たかったロゼッタストーンが案外小さいので意外だった」 夫は二回目なので大英博物館もロンドン塔もあまり感激はなかったらしい。 「ウエストミンスター寺院の墓所は、やはり不思議な気がする。墓の上を人が歩くんだからね……」 「私はアフタヌーンティを飲みに行きたかったのよ。昨日のマダム・タッソーろう人形館をやめてお茶に行ったほうがよかったかな」 「そりやあ、ろう人形館のほうがいいよ。あれは珍しかった」 昨日の午後、自由行動の時間に私たちはタクシーを飛ばして、ろう人形館にでかけた。日曜日だったせいか、すごい行列で一時間以上も並んだ。 有名人、著名人の等身大の人形は精巧なもので驚いたが、人の波に押され、とうとうホラーの部屋まで入りこんだ。音響効果や照明などによって、処刑の場や凶悪犯罪者の様子が生々しく表現されていた。 ホラーの部屋も気持が悪かったが、薄暗い部屋で大勢の外国人に囲まれたのも初めての経験で、とても無気味で恐ろしかった。私たちはぐったりと疲れ、雨の中をホテルへと急いだ。 「三日間、ロンドンの色んなところを観光したけれど、私は、ここケンジントン・ガーデンズが一番気に入ったわ」 「僕も、ここが一番いい」 ふと見ると、公園の周囲で乗馬をしている人たちがいる。ハイドパークの周辺に砂地でできた乗馬専用道路があると、林望のエッセーで読んだことがあった。 街の中で乗馬が楽しめるとは……。優雅なロンドンっ子の一面をみることができた。 雨が降ってきたらしく、ラウンド・ポンドの水面にポツ、ポツと小さな輪が広がった。 ロンドンは四月に雨が多いところだそうだが、今年は六月にずれこんでいるとか。 なんだか淡い感じの雨だ。私たちはレインコートを羽織ると、ゆっくりとブロードウォータの坂道を下り、ケンジントン・ガーデンズを後にした。 (平成九年六月二十三日) 二人で背負ったもの 夫は去年、古稀を迎えた。 カニが好きな人なので、息子たちと「カニすき」で賑やかにお祝のテーブルを囲んだ。 そのとき私はふぎけて 「お父さん、七十年の生涯の中でなにが一番重荷でしたか」 とインタビューの真似ごとをしてみた。 夫はしばらく考えていたが、真面目な顔をして 「やっぱり、親父とお袋を看たことかな」 思いがけない返事が返ってきて、私は唖然としてしまった。 舅が九十七歳、姑が七十七歳で亡くなるまで老親の面倒を看たのは私だったはず。昭和三十年代のあの頃は、世間も家族も、親の介護は娘か嫁がするものだと思っていた。年ごとに体が不自由になっていく両親をみ、その介護に孤軍奮闘している妻をみて、ロには出さなかったが、夫はずっしりと重いものを抱えていたのかと初めて気がついた。 私は一人で老人介護という重い荷を背負っていたつもりでいたが、しっかりと支えられていたんだと改めて思い知らされた。 夫は五男であるが、後添いの一人息子として生まれた。末っ子夫婦と暮らしたいという両親の希望で、私たちは昭和三十一年、結婚と同時に同居した。舅は八十七歳、姑六十六歳で息子夫婦というより孫夫婦といっていいくらい年齢のへだたりがあった。 舅は年齢の割には元気な人であったが、八十七歳という高齢、姑はすでに血圧が高く、頭がフラフラするといっては床に就く日が多かった。 年をとるというのは年々障害がふえることだから、二人の日常生活の世話は細かな心配りと体力が必要だった。新婚早々、慣れない老人の世話が始まったわけで呑気者の私もすっかり参ってしまった。 昭和三十年から四十年代、現在のような老人保健法はなく、ましてや老人福祉サービスという公的支援などは全くなかった。すべて嫁である私の肩に重くのしかかっていた。 子どもが生まれるまでは仕事をつづけながら朝夕両親の世話もできたが、長男が生まれてからは家庭か仕事かで深く悩んだ。 私は薬剤師としての仕事が面白かったので、ずっとつづけたかった。子どもを保育園に預けることも考えたが両親のことも気になる。そこで勤務時間を十時から十六時までの六時間とし、その間、通いで来てくれる人を探した。両親のもとで子どもをみてもらえれば安心だと必死であった。 幸いなことにOさんという五十代の女性が見つかった。男の子を四人も育てたベテランで、非常に人柄もよく、こまやかな気づかいをする優しい人であった。両親とも気が合い、子どもたちもなつき、十一年間も助けてもらった。 Oさんとの出合いがなかったら、仕事もつづけられなかっただろうし、両親の世話と育児で私はポロポロになっていたと思う。また、家に他人が入り、昼間私が家にいないことで両親との間の風通しもよくなり、家の中がなんとか上手く廻っていった。 だが妻、母、嫁、薬剤師と一人四役の手綱さばきは容易でなかった。ゆっくり子どもと遊べない、専門書を読む時間も作れない、どれをとっても中途半端で、しばしば自信を失くし挫折感を味わった。 高度経済成長の真只中、夫は仕事、仕事で、家には寝に帰るだけの人であった。なにもかも私に押しっけて「なんてひどい人だろう」と怒りの気持がこみ上げたが、ぐっと呑み こんで堪えた。まだ若く健康であったからなんとか乗り越えてこられたんだと思う。 私の三十代は、マラソンの有森選手ではないが「自分で自分を褒めてあげたい」心境あった。 佐江衆一著『黄落』 という小説の中で、母親の介護をしてくれた妻に葬儀の日、皆の前で感謝の気持を言えなかったというところがある。作者と夫は同世代で羞恥心というか、格好をつけるというか素直に気持を出せない世代の男性だ。 ラジオの深夜放送「老いの探求」というインタビュー番組の中で、佐江氏は、 「自分の、男として、夫としてのずるさとでも言いますか、或いは弱さ、逆に妻としての女性の優しさ、辛抱強さ、素晴らしさを改めて考えました」 と心の内面を語った。 夫が重荷に感じていたのもこの辺のところであったろう。あのころ私には夫の気持を思いやる心の余裕はなかった。 いまでは確かに気持は分かるが、あの時なにか夫からの表現がほしかったと昔のことが思いだされた。 (平成入年九月) |