セピア色のペダル紀行

二十歳の体験は
いまも色褪せることなく生きている



ある日、書棚の資料を整理していると、古びた写真が数点でてきました。
それは僕(Webおじさん)の若いころのスナップでした。

いまから四十数年ほどむかし、ちょうど二十歳前後の学生時代。自転車で単独日本一周をしていた時のものです。その瞬間、あのころの空気感が蘇りました。

高知県 室戸岬


いまの僕をささえる土台となった体験を、九州から一番遠い北海道でのエピソードを中心に、少し長くなるかもしれませんが、初めて話してみようと思います。



日本という国のスケール感やその土地の人たちを、自分のこの足と、この目で確かめたい。そんな湧き上がるような願望にかられ、ペダルを踏み、走りだしました。いまにして思えば、僕にとって勇気がいる、大きな第一歩でした。

北海道 網走刑務所 出所ではありません。念のため


いまのように便利なコンビニやナビもなく、ただ紙の地図と勘をたよりに、九州から四国、本州、津軽海峡を青函連絡船で渡り、北海道をまわる。しんがりとなる九州へ。

その途上、ビバーク(野宿)やユースホステルを中心に寝泊まりして走る。くじけそうになりながらも、ひたすら走る。お金が乏しくなれば現地で日銭を稼ぐバイトをして、また走る…。

襟裳岬では昆布とり、新冠の牧場では馬や牛の世話、日高の農場ではトラクター運転、仙台の松島では遊覧船の集客、利尻島や各地でユースホステルのヘルパーなど色々やりました。

当時のユースホステルは、低料金で外国人旅行者も多く、フレンドリーで活気にあふれ、ご飯のおかわり自由なところもあり、走るための貴重なエネルギー源でした。ネットやSNS、スマホもない時代ですから、重要な情報交換の場でもありました。

あの山の向こうは… どんな人と出会いが… 見知らぬ同志が友達に… ご好意で泊めてくれたり… 好奇心や出会いがめくるめく続く感動の毎日。

日本最北端の宗谷岬にたどり着いたときは、涙があふれました。 そして言葉で表せない到達感が、いつのまにか明日のペダルを踏む原動力となっていました。

北海道 宗谷岬 日本最北端


進む道は自分の意思で決め、暑さ寒さにさらされ、雨風をもろに受け、峠道の上りは試練と思い、下りはご褒美だと思い、人との出会い、親切や優しさに触れ、一日をやり抜いた充実感に満たされる。僕は長距離ランドナーだと。

日本という国に住む人々は、捨てたもんじゃない!

感受性が強い年頃だったので感動のしっぱなしでした。人を信じることから始める。このことを体感したのも、まさにこの時期でした。

学校は落第スレスレで、なんとか留年なしで卒業できました。僕のためにノートを用意してくれたり、授業での代返?ほか様々なご協力をたまわり、学友殿の皆さんには感謝の日々でございます。

幸運にも70年代の昭和は、そんな許容をもった人たちが多くいた時代であり、優しさのある社会だったのかもしれません。

二十歳の旅でえた貴重な体験や出会いは、とても深く心に沁みました。写真はセピア色になっても、何ものにも代えがたく、色褪せることなく、いまに続く僕の土台となっています。


時をへて… 昭和から平成 そして令和へ


人並みに就職をし、家族持ちとなり、三十にして立つ。

いまで言うフリーランサーとして、仕事と暮らしに奮闘努力の日々が続きました。「自転車で単独日本一周をしたことがあるんだぞ」と家族に話しても、本当かなぁ〜?という顔…。

気がつけば、長男は部屋に大きな日本地図をはり、おなじ道を書き記し「自転車で単独日本一周」。次男は50ccのモンキーで「四国八十八ヶ所巡礼や全国各地を旅歩き」。

僕は思わず、ニタッ!としたもんです。


あれから四十数年。子供たちは独立。健康で病気もせず、かみさんと仕事や暮らしを楽しむ日々をおくっています。

現在、社会的に独立したフリーランス(個人企業法人)として、ウェブデザイナーやフォトグラファーを養成する学校とウェブ制作をする会社を中心に、かれこれ40年ちかく営んでいます。日本一周したときの記憶や土地勘が役立つ業務企画「写真と映像で地域おこし」、全国各地をまわる撮影取材も続けています。

嬉しいことに、いまは二人三脚で、ペダルを踏んでいます。豊かな心を享受できることに感謝です。

人生100年時代。生涯現役の職業人であり続ける。これまで培ってきた仕事ノウハウを一人ひとりに伝えるため、隠れ家のような大人の学校を展開。学ぶのは明日へのパワー。

むかし、永遠のひげチャリと呼ばれ、いまは、Webおじさん。

僕の永遠のテーマである「デジタルな仕事とアナログな暮らしの共存」。心地よく、程々のペースで、いつも前を向いて進みます。

旅はつづく。新たなペダル紀行として、記憶に書き記していこうと思います。

余談ですが


発行部数が当時ナンバーワンだった週刊平凡パンチ。その取材班から「北海道のサイクル野郎」として取材を受け掲載された写真です。

スマホやネットはない時代。長旅を終え、何も知らず九州に戻ったら、途端に友人や知人、そして、知らない人からも沢山の連絡が入り驚きです。

お笑いぐさですね…。静かに始めた旅のはずが、地元では時の有名人。 : )

↑↑↑ 過酷な試練に耐え、博多から走破してきたサイクル野郎の表情にみえますか?

実はこのあと、金欠で日銭を稼ぐため、襟裳で昆布とりのバイト(住込み食事付)の約束があり、先を急いでいました。取材は有難いことなのですが、予想以上に時間をとられてしまい、少々困惑ぎみ?。いま思えば、粗野で無精な表情が取材班の訴求イメージにピッタリとはまり、良かったのかも。 : )

日焼けで顔や腕は真っ黒。服も自転車もボロボロ。中身は元気溌剌。靴はとうとう破れてしまったので、新品を履いています。やけに白いでしょ。


まだまだ、話題は事欠きませんが、今回はここまで。またの機会、長旅の続きがお話できれば…と思います。最後までお読みくださり有難うございました。



旅心 いまも悠々と流れる